1946年8月10日付までの紙面 未解明の放射線被害 「人類道徳をも破壊する科学の猛威」 9月以降、原爆被害の「感情」抑え
原爆投下で壊滅的被害を受けた長崎新聞社は、西日本新聞社との協定に基づく約1カ月間の委託印刷を経て、自力印刷を開始する。1946年8月10日付までの紙面を概観した。
終戦直後は「原子爆彈下の廣島鳥瞰(ちょうかん) 信じ得ぬ程の體験(たいけん)」(45年8月17日付)-など、大きな記事を掲載する一方、8月末には「目抜街の復舊(ふっきゅう)完了 快速進捗(しんちょく)の長崎再建」(31日付)など、大げさな記事も散見される。
原爆の熱線、爆風とともに未解明の放射線被害で長崎の人々は苦悶(くもん)の中にあった。人体被害について真正面から書いたのは、9月2日付の「厄介な放射線火傷 頭髪が抜けたり歯莖(はぐき)から出血」。海軍派遣特設救護隊が「巷間に流布されてゐる『七十五年間人畜の生存不能』説に科学のメスを加へるべく」現地調査したと伝えている。
「傷一つ負はず絶命 毒ガスに數倍する殘虐性」(9月3日付)では、3人の症状を例示。長崎市城山町の27歳女性は、打撲程度だったが8月11日ごろ食欲減退、25日に頭髪が抜け猛烈な倦怠(けんたい)感に襲われ、29日に九州大に入院、重体としている。また、被爆後救護に赴き血球の減少やだるさを訴える人が多く、「これが漸次恢復(かいふく)するものかあるひは死亡するものなのか、それもいまは全く未知数」と記した。
米軍の進駐を控え、国内の緊張が高まる中、9月14日付で自力印刷の再開を社告。15日付で、浦上を踏査した長文のルポ「原子爆彈 一ケ月後の現地」を掲載した。続く16日付では「原子爆彈見えぬ猛毒 健康者が續々死ぬ 恐怖の第三群症状」で、澤田藤一郎九州大教授らによる分析を軸に被害実態を紹介。「爆発地点から三キロ以内の生きとし生ける凡(あら)ゆる生物の生命を奪つた原子爆彈が爆発後一ケ月余を經た現在今なほ多数の人命を殺戮(さつりく)してゐるその恐るべき性能」「人類道徳をも破壊する科学の猛威」-などと憤りを込めた記事となっている。
特に時間の経過とともに「顆粒(かりゅう)白血球喪失症」を呈する「第三群病症患者」の実態について、紫斑、黄疸(おうだん)、脱毛、痛胸、多量の喀血(かっけつ)、血便、血尿、子宮出血などの症状で苦痛を訴えながら死亡するとし、「長崎市の被爆地には一見してこんな症状を呈してゐる澤山の人達が死体を焼く火焰(かえん)をみつめながら自分の死を待ってゐる」と記した。
家族、友人を亡くし、自ら被爆した記者も少なくなかったと思われるが、この後、原爆被害に関し感情を込めた記事は減少する。
12月7日付の投稿欄では城山町の男性がこう訴えた。「浦上方面は夜ともなれば灯一つ見えず、話声もなく、ひっそりと閑として全く死の町も同然である」「今我々戦災者に與へられてゐるものは唯餓死と凍死の自由のみだ」