原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第2部「プレスコード」 1

書架で占領期の新聞や雑誌を箱に入れて保管しているプランゲ文庫=米メリーランド大

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第2部「プレスコード」 1 GHQが新たな報道統制 占領円滑化で世論操作 軍国主義宣伝や扇動など検閲

2014/10/05 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第2部「プレスコード」 1

書架で占領期の新聞や雑誌を箱に入れて保管しているプランゲ文庫=米メリーランド大

GHQが新たな報道統制 占領円滑化で世論操作 軍国主義宣伝や扇動など検閲

1945年8月15日の終戦により、「長崎新聞」は新聞製作を縛った戦時下の多くの国内法令から解き放たれる。だが、それは連合国軍総司令部(GHQ)の検閲制度で縛られる時代の始まりでもあった。年間企画「原爆をどう伝えたか」第2部、第3部では、日本が主権を回復する52年4月までの占領期を取り上げる。まず第2部では、日本の活字メディアを報道統制したGHQの「プレスコード」に焦点を当てる。

■投下後の詳細遮断

GHQは45年9月10日、「言論及び新聞の自由に関する覚書」を通達。言論の自由を原則として認めながらも連合国軍の占領政策を円滑に進めるために新聞、ラジオを取り締まる基本方針を示した。

同14日には同盟通信(共同通信などの前身)がGHQにより海外向けニュースの配信を遮断され、業務停止命令を受けた。山本武利・早稲田大名誉教授の著書「占領期メディア分析」によると、当時のGHQ資料には同盟通信の英語のモールス放送を分析したものがあり、ニュースの13%が「原爆投下後の詳細」だったという。

反GHQ的な報道を続ける日本メディア。これに対し、欧米メディアで軍事検閲への服務規則に従う従軍記者からはGHQに不満が寄せられていた。同盟通信は15日に活動を再開したが完全な事前検閲を余儀なくされた。朝日新聞も18日午後4時から48時間の発行停止処分を受け、19、20日付の休刊に追い込まれた。

GHQは19日、プレスコード(新聞遵則=じゅんそく)=表参照=を発令。日本の新聞、通信社、出版社といった活字メディアが守るべき報道の基準を示した。22日にはラジオコード(ラジオ遵則)を出した。

■地方紙は事後提出

検閲を担ったGHQの民間検閲局(CCD)は9月26日、広島以西(四国除く)を管轄する拠点を福岡に設け、放送の事前検閲や、長崎新聞を含む地方紙の事後検閲を開始。10月上旬には東京の主要紙を対象に事前検閲を始め、大阪の主要紙や通信社、東京の出版社などに対象を拡大。その後、一部のブロック紙も事前検閲の対象となった。

事前検閲の場合は発行前に2部のゲラ刷りを提出。▽米国批判▽軍国主義の宣伝▽暴力や社会不安の扇動-など約30項目の掲載を禁じ、該当すれば削除を命じた。問題がなければ「パス」、部分的に問題があれば「部分削除」などの指示を記した上で1部を返却し、1部を保管。検閲は秘密とされていて、その存在を示唆する情報の痕跡を残すことは許されなかった。

事後検閲のメディアは発行後に提出。プレスコードに抵触するものは発行者に注意や処分内容の文書が送られた。

GHQにとって検閲は、占領軍に有利な世論操作にプラスに作用する効果が大きく、占領政策に生かすための諜報(ちょうほう)価値の高い情報を入手することもできた。CCDは、民主化教育やメディア指導を担う民間情報教育局(CIE)とともに二元的に統制した。

一方で、CCDの日本人スタッフは47年には全国で8千人を超えた。郵便物の検閲が主だったが、人的負担も大きかった。47年末に出版の事後検閲への移行が進み、事前検閲の対象だった新聞・通信社も48年7月に事後検閲に移行した。米ソ冷戦を背景に米政府は48年10月、占領政策を転換。49年10月末にCCDを廃止し検閲は終了したが、プレスコード自体は占領期が終わるまで続き、CIEがその役割を担った。

■調停で4社に分離

終戦とともに起きた民主化の波は、戦時統制で「長崎日日」「長崎民友」「軍港」「島原」の4紙を統合していた「長崎新聞」にも及んだ。

読売系の幹部が当時多かった「長崎新聞」は、読売系、旧長崎日日系、旧民友系の間で経営をめぐり対立し、46年5月には前年12月に発足した労働組合を巻き込んだ争議に発展する。

GHQは係官に調査させた上、長崎地方検事局を通じて調停命令を出し、関係者と協議。争議の責任を取って西岡竹次郎会長や渡貫良治社長が辞任し、長崎新聞は統合前の4社に分離する共同声明を発表した。

46年12月10日付で「長崎日日」「長崎民友(題字は民友)」「島原(題字は新嶋原)」「佐世保時事(軍港から社名変更)」として再出発。GHQは戦後処理の一環で46年1月に、いわゆる「公職追放」を発し、47、48年に全国で20万人以上を公職や要職から追放。西岡、渡貫両氏も対象となったが、占領政策の転換で追放解除となり51年までにそれぞれ社長に復帰した。

◎プランゲ文庫 米メリーランド大で開室/1945~1949年検閲の印刷物所有 当時の日本知る貴重なコレクション

米メリーランド大プランゲ文庫は、連合国軍総司令部(GHQ)の民間検閲局(CCD)が検閲を実施していた1945~49年にかけ日本で出版された印刷物のほとんどを所有する。当時の日本を知る上で極めて貴重なコレクションだ。

▽雑誌約1万3800タイトル▽新聞約1万8千タイトル▽図書・パンフレット類約7万1千点▽報道写真約1万枚▽地図約640枚▽ポスター・壁新聞約285枚-。検閲関連の文書は約60万ページに及ぶ。

GHQの検閲は、発行者が出版物を2部ずつ提出することを義務付け、書籍やパンフレットには検閲官がジャンルと番号を割り振り、提出された日付、ローマ字化したタイトル、発行予定部数、用紙の種類を表紙に記入。1部を発行者に返送し、残り1部をCCDが保管していた。

同大はプランゲ文庫を開室し、資料の保存と整理を進めている。だが戦後の日本は極度の紙不足で品質の悪い酸性紙が使われることが多かったため、劣化が加速度的に進行。同大は80年代から資料のマイクロフィルム化に取り組み、日本の国立国会図書館との共同事業で図書・パンフレット類のデジタル保存作業などを推進。山本武利・早稲田大名誉教授を代表とするプロジェクトチームが2000年度からデータベース構築に取り組み、運用している。