“再生”撮り続けた父 被爆10年後 家並み整い始め
原爆投下から10年後の1955年。長崎のまちは、少しずつ復興に向かっていた。同年冬、雪が降りしきる長崎医科大(現・長崎大医学部)グラウンド。中央右奥には、うっすらと長崎国際文化会館(現・長崎原爆資料館)のシルエットが見える。撮った人の心情までにじみ出たような寂しげな雰囲気。
西彼長与町高田郷の道向市昭(みちむこいちあき)(70)の父、實(みのる)(2011年95歳で死去)が撮影した。アマチュアカメラマンだった父は、昭和20年代後半から30年代にかけ、復興過程の長崎を活写。一方で、自らの被爆体験は家族に全く語らなかったという。
市昭は1歳の時、伊王島の母の実家で被爆。記憶はない。数日後、母に背負われ浦上辺りを通ったとしか聞いていない。家庭で原爆を話題にすることもなかった。「被爆者に対する世間の目がまだまだ厳しかった」
父は原爆投下から5年もたたないうちに箱型のカメラを購入。イモで飢えをしのぐ時代。カメラはぜいたく品だったが、鉄鋼所で働きながら、長崎の街並みや何げない生活風景、そして市昭ら6人の子どもたちの成長を記録した。
グラウンドの写真について、長崎平和推進協会写真資料調査部会の丸田和男(82)は、山積みの資材に着目。「辺りは家並みが整い始めている。新しい建物などを建てる準備だろう」と推測する。
解体される前の旧浦上天主堂と55年建立の平和祈念像を一緒に収めた一枚。同協会の写真資料調査部会長、深堀好敏(85)によると、原爆で破壊された旧天主堂のがれきは、49年の宗教行事に合わせて撤去され、以降、結婚式を挙げる花嫁の姿や、にぎやかな子どもの遊び声が響くようになったという。(文中敬称略)
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来年の被爆・終戦70年に向け、長崎新聞社は2012年から個人所有の戦前-戦後の長崎の写真を募集している。写真と提供者を紹介する「長崎の記憶」の第4部は、復興を見つめたアマチュアカメラマンの遺族を取材した。