浅田第一さん(2009年86歳で死去) =西海市西彼町= 飢えと寒さで次々死亡 妻が亡夫の抑留聞き書き
「亡き夫がシベリア抑留について語ったのは1度だけ」。浅田トシ子さん(85)=西海市西彼町=が振り返る。1995年、いつも温厚で優しかった夫第一さん(2009年86歳で死去)は、大粒の涙を流し、拳を震わせて生き地獄のような日々を語ったという。
第一さんとトシ子さんは終戦から5年後の50年に結婚。第一さんは農業、トシ子さんは小学校教員として働き、2人の子どもに恵まれた。終戦から半世紀となった95年、トシ子さんは夫の抑留体験を書き残すべきだと思い「つらいでしょうけど」と頼み、聞き書きした。「シベリア抑留から奇跡の生還」と題してまとめたのは96年のことだった。
45年8月、第一さんは色丹島で終戦を迎えた。ソ連兵が突然上陸し、武装解除。ソ連船に乗せられ日本に帰れると喜んだのもつかの間、船は北上し港に着いた。貨車に詰め込まれ、便を漏らす人もいて耐え難い悪臭。荒野を何日も走り続け、ハバロフスクを経て、バラック小屋が並ぶブラゴベシチェンスク付近の捕虜収容所に着いた。
冬は氷点下30度以下になることも珍しくない酷寒。山林伐採が日課で、ノルマを果たさないと食事の量を減らされた。1日のうち2食はジャガイモを刻んだスープが食器1杯、1食は喉が痛くなるほど小麦のかすが入ったパン1枚と干しニシン一切れ。床板の上に薄い毛布一枚と作業用の上着を掛けて寝た。飢えと寒さで2年目の冬は同室の友が次々と死んでいった。「明日は生きて目覚めるだろうか」。死の恐怖におびえた。
仲間と励まし合っていたが、やせて筋肉はなくなり3年目の冬は越せないと自覚。「重病人は日本に送還される」と聞き、生死を懸けて石灰を水に溶いてこっそり飲み始め、数日後に血便が出るようになった。重病人と診断された。
帰国の途、ウラジオストクを経て、ナホトカで復員船の日の丸を見ると衰弱した体に不思議な力が湧き小走りした。48年6月、京都の舞鶴港に到着。抑留から3年近く経過していた。
戦中、軍艦「羽黒」に乗っていた第一さんの弟は、撃沈され戦死。トシ子さんの兄は日中戦争時代、砲撃を受けて片肺を失ったが奇跡的に助かった。当時は何もかも秘密で、家族は出征先も知らされず、見送るだけ。特高警察が怖かった。
トシ子さんは6月、西海市立西彼北小で、講師として戦時中のことを語った。児童の感想文には「平和な時代に生まれてきてよかった」などと書いてあった。だが日本は今、特定秘密保護法の年内施行へ政府が準備を進め、集団的自衛権の行使も容認。「戦争にまた向かっている」。そんな危機感をトシ子さんは抱いている。