勝盛章さん(88) =大村市原口町= 極寒の収容所で重労働 玉音放送も知らされず捕虜に
父が旧満州(現・中国東北部)で働いていた勝盛章さん(88)=大村市原口町=は、奉天(ほうてん)(現・瀋陽(しんよう))で生まれた。1945年春、19歳のとき、泰安(たいあん)(現・山東省)駐留の歩兵部隊「衣4296部隊」に徴兵された。ほふく訓練に明け暮れ、毎日のように鉄拳制裁も受けた。「とにかく戦争中はまともじゃなかった」
同7月、部隊はソ連軍の侵攻に備え、朝鮮半島北東部へ移動した。地面に掘った人1人が入る「たこつぼ」の中で待機。戦車が来れば、近づいて迫撃砲を爆発させる作戦。死ぬかもしれないと思っていた。食糧と水は乏しく、カビの生えた乾パンも食べた。鉄帽にためた雨水を飲んでしのいだ。
原爆も玉音放送も知らされないまま迎えた同8月末。他の隊員と食料を受け取るため陣地を離れた。ソ連兵のトラックが近づき、自動小銃で威嚇射撃された。「スカレイ」(早くしろ)。手を上げた。武装解除され、捕虜となった。
その冬、ソ連兵に「ダモイ」(帰国だ)と言われ、興南(フンナム)(現・北朝鮮東部)から船に乗ったが北上。着いた先はソ連極東・ソーガワン地方(現・ハバロフスク地方)の捕虜収容所だった。途中、ウラジオストクに寄港し、ベッドや松葉づえ、医薬品が積み込まれた。「何だろう」と思ったが、シベリア抑留の重労働で寝込んだり凍傷になったりした人のためのものだった。
シベリアでは森林伐採に従事。マイナス40度以下でないと作業中止にはならなかった。突き刺すような寒さ。いつ殺されるかも分からない。マラリアにかかったこともあったが生き抜いた。みんな頭をからっぽにしていた。病気で死ぬ人や凍傷で足を切断する人もいた。
47年夏、ソ連兵から「ダモイ」と告げられた。2年間の捕虜生活から、いよいよ解放されることになった。ナホトカで引き揚げ船「恵山丸(えさんまる)」のタラップに足をかけると「胸にジーンときた」。京都・舞鶴に着くと大勢の人が万歳で迎えてくれた。
喜びの半面、今後の生活が不安だった。縁あって長崎市に入り、一から生活基盤をつくっていくしかなかった。満州での日本語は標準語のイントネーションだったため、長崎弁が分からず苦労したが、53年に大村市など4カ所の競艇場で実況アナウンサーの仕事に就いた。翌年、大村市役所に入庁し、定年まで勤めた。
「白いご飯を毎日食べられる平和はありがたい。戦争やシベリアの話は気が重くなるので、思い出したくない」。だが、現代に目を移すと、中国や北朝鮮の軍事行動の活発化、日本の集団的自衛権の行使容認など緊張感が増している。「とにかく言いたいのは、戦争は負けたら哀れなもの。絶対にするものではない」