前田セツヨさん(89)=雲仙市国見町= 身寄せ合い 満州から脱出 いとこ家族と1年2カ月の苦難
旧満州(現・中国東北部)の地方都市、ハイラル。1945年8月9日早朝、ソ連との国境に近いこの町に爆音が鳴り響いた。長崎に原爆が投下されるこの日、満州へ侵攻してきたソ連軍の空襲だった。「逃げんば」。前田セツヨさん(89)は当時、20歳。日本に引き揚げるまで、1年2カ月の苦難の始まりだった。
南高多比良村(現・雲仙市国見町)生まれ。17歳のころ、ハイラルで眼鏡店を夫婦で営んでいた、いとこの敏子さんを頼って渡満した。「こっち(国見)に仕事がなかったから」。警務庁(警察)でタイピストとして働いた。大草原に広がるハイラルは肉や毛皮の一大集散地。食糧難の日本に比べると恵まれていた。
だが、平穏な生活は長くなかった。町からは次第に日本の若い男たちの姿が消え、敏子さんの夫も出征。戦況悪化を知らされぬまま、ソ連侵攻の日を迎えた。
敏子さん、その子ども3人と一緒に、混乱に陥った町からの脱出劇が始まった。敏子さんの子どもは小学1年の長男を頭に、末娘はまだ2歳。向かったのは敏子さんの夫の親戚がいた北満州のハルビン。昼夜ない空襲におびえながら鉄道を線路伝いに歩き、畑のキャベツで空腹をしのいだ。
「もう、死のうかい」。弱音を吐く敏子さんを「ハルビンまで行けば何とかなる」と励まし続けた。極限状態だったのは自分たちだけではない。同じように逃げていた日本人の集団から、子どもが一人、また一人と減っていった。置き去りだった。「(敏子さんの)3人の子どもも一歩間違えば残留孤児になっていた」
丸6日かけ、ハルビンにたどり着いたのは8月15日夜。そこで終戦を知る。戦争に負けて悔しいといった感情は湧かなかった。「もう逃げ回らなくていい。ただただ、ホッとした」
だが、ハルビンも安住の地ではなかった。ソ連兵による日本人の男狩り、強姦(ごうかん)、略奪-。5人で身を寄せ合い、ひっそり暮らした。過酷な環境の中、命を落とした日本人も少なくない。真冬のある日、かつての日本人小学校の校庭に、凍った日本人の遺体が裸のまま無造作に山積みされていた。あの光景を忘れることができない。
過度のストレスからか、ソ連侵攻のあの日から、46年10月に佐世保に引き揚げるまで生理が止まった。兄は戦地のニューギニアに散り、貝殻だけが入った白木の箱で帰ってきた。敏子さんの夫も戦死。平和な世に生まれていたら、勉強したかったと思う。憲法9条改正、集団的自衛権なんて難しいことは分からない。だが、これだけは断言できる。「戦争でいいことなんて何一つなかった。それが戦争たい」