朝永栄さん(89) =雲仙市吾妻町= シベリア抑留 仲間ら処刑 厳寒の地で4年、命の尊厳なく
「命が軽いということなんですよ」。丸4年、シベリアに抑留された雲仙市吾妻町の朝永栄さん(89)。寒さで命を落としたり、監視兵に殺されたりする仲間を間近で見た。「よく生き延びた」。感慨を胸に当時の記憶をたぐり寄せた。
1944(昭和19)年秋、大村の陸軍歩兵第46連隊に入隊。旧満州(現・中国東北部)に渡り、牡丹江で機関銃中隊に配属された。年が明け戦地へ出発する間際、気管支炎になり人員から外された。その後、朝鮮半島の大邱(テグ)(現・韓国南東部)で幹部候補生の試験に合格。平壌(ピョンヤン)(現・北朝鮮の首都)の朝鮮軍教育隊で学んでいた。
8月15日、講堂でラジオの玉音放送を聞いた。敗戦に驚きはしたが、芳しくない戦況は知っていたので大きなショックはなかった。武装解除で、武器が山積みにされた場所に銃を置いた。丸腰で朝鮮人と向き合うことに心細さを感じた。「兵隊は武器を持たないと力が抜けてしまう。朝鮮人を今まで押さえ付けていたから急に恐ろしくなった」
平壌郊外の三合里の収容所に大勢の日本兵らが集められ、ソ連軍が各地へ送る準備をしていた。逃亡者を捕まえると幅50センチほどの溝を掘ってそばに立たせ、銃で処刑してみせた。「眉間から血が噴き出て、そのまま後ろの溝へ倒れ込む。あとはスコップでその溝を埋めるだけ」。逃げ出す人はもういなかった。
北東部の元山(ウオンサン)から船でソ連のポシェトへ渡り、ウォロシーロフ(現・ウスリースク)の収容所へ。施設が複数あり、周囲は鉄条網。凍傷するほどの厳寒で、死人もでた。貨車へのレール積み込みや牧場の草刈りなどに従事。食べ物はコーリャンが1日茶わん1杯。草刈りで見つけたカエルはごちそうだった。会話は食べ物のことばかり。帰国できたら雑煮を食べたいとみんな言っていた。「正月の餅はおいしかったな」などと話し、東北や北海道の人はソーラン節をよく歌っていた。
鉄条網そばで小便をした人は監視兵に射殺された。命の尊厳などなかった。日本へはもう帰れない、一生続けるんだと考えていた。
ある日、帰国できるといううわさが広がった。正式に聞いたのは49年秋。抑留から4年がたっていた。半信半疑だったがナホトカから船に乗り、舞鶴に上陸。「そのうれしさといったら」
島原鉄道で古里の山田村(今の雲仙市吾妻町)の駅に着くと、村民の出迎えを受けた。「(ソ連に抑留されていたため)アカ(共産主義)になったんだろう」とうわさする人もいたが気にせず農家として働いた。
懸命に生きてきたが、集団的自衛権の行使容認など昨今の日本の情勢には危うさを感じる。「若者は今の生活が当たり前と思っているだろうが、戦争が始まるとこんな暮らしはできない」
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終戦から69年がたとうとしている。15日の終戦記念日を前に、外地からの引き揚げや復員の苦難の記憶をひもとく。