原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 9(完)

原爆、敗戦―。焦土と化した被爆地は苦悩の中でまた歩み始めた

ピースサイト関連企画

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 9(完) 黎明 1カ月後 浦上をルポ GHQ検閲再開 4社に分離

2014/08/08 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 9(完)

原爆、敗戦―。焦土と化した被爆地は苦悩の中でまた歩み始めた

黎明 1カ月後 浦上をルポ GHQ検閲再開 4社に分離

社屋が全焼した長崎新聞社は、本部を伊良林の光源寺に据え、再建を目指した。そして終戦-。仮社屋を出島町の旧長崎民友新聞社に置き、1945年9月14日付紙面から自力印刷を再開した。社員は次々に復員し、社は膨れ上がった。

敗戦国日本が復興を目指す中、連合国軍総司令部(GHQ)は、報道を制限していた日本政府の法令を廃止。長崎新聞は9月15日付「原子爆弾 一カ月後の現地」と題したルポで浦上の惨状を明らかにした。

その紙面で、記者は損壊した浦上天主堂を訪れ、あちこちで死体を焼く火を目撃、足元に信者ら40人の死体が掘り起こされずにいる状況を記した。また、親を亡くし、髪が抜け落ちた子らが青い顔で遊んでいたという神父の話を紹介。軽傷とみられた被爆者が絶命する実態を生々しく伝えた。

しかし同月、GHQはプレスコード(新聞遵則)を示し、検閲制度を再開。特に原爆に関する報道や出版は厳しく規制された。

全国紙には「社内民主化」の流れが生まれ、地方にも波及。編集局長だった田中豊秋(75年死去)は、戦中の編集責任を問われ「5年間の公職追放になった」と記している。”追放”後の暮らしは一変。佐賀の実家で慣れない農作業を始めたが白髪が増え、老け込んだ。「新聞作りに燃えていた父。やるせなかったろう」と長女の森裕子(80)は語る。

日本国憲法公布は46年11月3日。田中は同日の日記に書いている。「身をもって獲得した憲法でないところに大なる不幸があり、直ちに自由と平等の醍醐味(だいごみ)に浸り得ない遺憾」。複雑な心情がにじむが、こう続けている。「今日の黎明(れいめい)を意義あらしむべく努力すべきは日本人たる者の大なる責務」

長崎新聞は同年12月9日、長崎日日、長崎民友、佐世保時事、新島原の4社に再び分離。同日付の最後の「長崎新聞」に4社連名の「終刊の辞」が載った。「極端な言論弾圧統制も、今やいまわしき思出となり、文字通りの言論の自由は、日本再建のいしずえ」

しかし、新たなプレスコードにより既に新聞、出版に本来の自由はなかった。

戦中に自国の統制下、原爆投下という人類史に残る報道を事実と懸け離れた内容で報じた長崎新聞は4社分離後、今度は原爆投下国が軸のGHQの統制下、報道を続けていく。(敬称略)