原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 8

長崎新聞は1945年8月10日付から約1カ月間、代行印刷された

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 8

2014/08/07 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 8

長崎新聞は1945年8月10日付から約1カ月間、代行印刷された

原爆投下から数日後、福岡市の西日本新聞社。「次は長崎新聞」。開始のベルで印刷が始まり、長崎新聞社発送課の14歳、伊東稔(83)は同僚の福田謙次らと構えた。刷り上がった新聞がベルトコンベヤーで流れてくると仕分け、梱包(こんぽう)作業に追われた。

戦時下、空襲で社屋が破壊された際に発行できるよう西日本新聞社と相互協定を結んでいた。このため原爆投下の日から「西日本新聞」の題字を「長崎新聞」に付け替え、代行印刷、発行を委託。以来、自社印刷を9月14日付で再開するまで、西日本新聞の夕刊の後、長崎新聞約10万部が印刷された。伊東らは連日午後6時ごろ、長崎行き夜行列車に積み込むため博多駅に運ぶ作業に従事した。

浦上で新聞を配達する奉仕隊の学童は数十人が犠牲になった。浦上駅は全壊、長崎駅は焼失、配送ルート、配達手段とも壊滅的だった。原爆投下を報じた8月10日付の長崎新聞は、果たして被爆地に配られたのだろうか。道ノ尾駅近くで被爆した当時12歳の新聞少年、中島喜八郎(81)は、配ったと記憶している。

中島は9日、自宅近くの防空壕(ごう)で母親らと再会、一晩を明かした。弟は上半身にやけど、三菱長崎製鋼所に勤める兄の行方は分からなくなっていた。

それでも長崎新聞は10日、道ノ尾駅に届いたという。「こんなにもひどい爆弾をどう書いたんだろう」。中島が紙面を見ると「被害は僅少の見込み」の見出し。「なんでこんなウソを」。怒りに震えたが、使命感から滑石地区に配達したと振り返る。

一方、県警察部特高課で検閲主任だった市川勝記は手記で「(10日付)新聞が3日目に(立山にあった県の)防空本部に到着した。ところが配達員がいなかった」と述懐。中島の証言と併せると、福岡で印刷された10日付の長崎新聞は道ノ尾駅まで到着したが、そこから南は遅れた可能性がある。

市川は、防空本部に届いた新聞を可能な限り抱えて、長崎駅前方面へ向かった。そして道筋の防空壕の被災者に配って歩いた。「ありがとうございます」と受け取る人たち。その壕の奥には瀕死(ひんし)の重傷者の姿が見えた。手持ちの新聞が尽きたのは井樋の口町(現在の宝町)付近。悲惨な情景が広がっていた。市川は下宿先だった坂本町方向に手を合わせ、本部へ引き揚げた。(敬称略)