惨禍 浦上 あらゆる死の形態 幼い弟ら家族5人 一瞬で
長崎新聞社に記事を配信していた同盟通信の記者、中山民也(1994年85歳で死去)は8月9日朝、ソ連が満州との国境を突破したことを長崎市馬町の同長崎支局(爆心地から3キロ)で知った。著書「昭和史の長崎」によると、知事に報告後、支局に戻りコップの水を飲んだ時、光と爆風に襲われた。ぼうぜん自失となり、夜は防空壕(ごう)で過ごした。
■
浦上一帯は、あらゆる場所に、あらゆる死の形態が表出された。川、防火水槽、道端、線路脇、がれきの下-。炭化、生焼け、火膨れ、無傷-。
15歳だった内田伯(84)=同市松山町=の自宅は、爆発点直下の同町にあった。内田は学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場(同1・4キロ)で被爆。降り注ぐガラス片で大けがを負った。工場の鉄骨があめのように曲がり、多数の焼死体が転がった。家族は母を除き、父や幼い弟ら5人を一瞬にして失った。
長崎医科大付属医院(同700メートル)の看護師だった18歳の平節子(87)=同市田上4丁目=は、航空機らしき音がして同僚に「伏せようか」と言った瞬間だった。背中をけがしたが、外科の調来助教授に促され裏山に避難。しばらくして医院から火の手が上がった。
旧制瓊浦中1年で13歳の丸田和男(82)=同市城山台1丁目=は、広島に新型爆弾が6日投下されたことを新聞かラジオで知っていた。でも日本が負けるはずはないと思っていた。期末テストを終え下校。銭座町1丁目(同1・3キロ)の自宅で上半身裸になり汗を拭いていた時、被爆、血まみれで脱出した。母は近所で立ち話中に爆風を受け、即死だったと聞いた。
3人のわが子を捜し回った長崎新聞記者の中尾幸治(64年死去)は、著書「遺稿 田舎記者」によると、虚空をつかんだ黒焦げの人、左手に弁当箱、右手にはしを持ったままの中学生、両手で目と耳を押さえた3~4歳の女児の亡きがらを見た。そして、「即死できなかった生きた死がいたち」の「ああ、水、みず、キュウリでもよか」といううめきを聞いた。
■
爆心地近くの下の川沿いには木造2階建ての新聞販売所があり、淵国民学校高等科の学生が奉仕隊として浦上の配達を担当していた。内田は静かに語る。「多くの子が学徒動員で駆り出され、そして原爆の犠牲になった」