9日朝 「お国のため」奉仕隊に 特高 新型爆弾の情報収集
「お国のために働いてくれ。そうすれば死んだ後に靖国(神社)に祭ってもらえるから」-。当時12歳で西浦上国民学校6年の中島喜八郎(81)=長崎市滑石3丁目=は3年時、道ノ尾駅近くにある新聞販売所の老配達員にそう促された。新聞配達はお国のため。以来、登校前に地元紙、県外紙を抱えて滑石の20~30世帯に配るのが日課になった。県外紙を積んだ夜行列車が午前7時20分ごろ同駅に着くのを待ち、先に届いている長崎新聞と合わせて配って回った。
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開戦直後、新聞は共同販売制度が導入され、県内の販売所も地元紙と県外紙をまとめて配るようになった。配達員は徴兵、徴用され、深刻な人手不足。このため奉仕隊が組織され、多くの学童たちが配達に駆り出された。
1945年になると、空襲などの影響で列車の遅延が増えた。8月9日朝も、夜行列車は道ノ尾駅に到着していなかった。中島は空襲警報が解除された後、販売所に行ってみたが、まだ県外紙は届いていない。
ようやく列車が着き、配達に向かおうとしていた。空にB29が見えた。「早く中に入れ」。販売所の人が声を掛けた瞬間、オレンジや黄の稲妻に似た光に襲われ、目と耳を押さえその場に伏せた。爆心地から3・5キロ地点。
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当時36歳の市川勝記(97年88歳で死去)は、県警察部(県警)特別高等警察(特高)課で検閲主任をしていた。市川の手記によると、油木谷の長崎新聞社印刷疎開工場の建設工事に従事する市立商業学校の学徒動員の生徒たちを督励するのが午前中の日課。同社での検閲の仕事は普段、午後3時ごろから就いていた。
しかし9日朝は違った。上司から、3日前に広島に投下された新型爆弾について報道関係から聞き取るよう指示を受けたからだ。
市川は、同社会長、西岡竹次郎が東京出張の帰路に広島で目撃したという惨状について情報を収集。勝山国民学校3階にあった職場に戻り、上司に「十里四方は焼け野が原となり、地域の全てを死滅させる極めて破壊力の大きな爆弾である」との内容を報告した。
自席で同僚と新型爆弾について話をしていた。「敵機2機、島原半島を西進中」とラジオ放送が入った。爆心地から2・8キロ。上着を着て帯剣しようとしたとき、時計の針は午前11時2分を指そうとしていた。(敬称略)