前夜 広島の被害 想像できず 空襲頻発、長崎港に水柱
長崎への米軍の空襲は1945年7月29、31日、8月1日と頻発する。「空襲警報発令!」。敵機来襲を伝える声が響いた。県庁近くの長崎新聞社発送課で働く14歳の伊東稔(83)は、社屋裏手、印刷工場横の倉庫に並んだ新聞巻き取り紙(印刷用紙)のロールの間に逃げ込んだ。死はいつも隣り合わせ。対岸の三菱電機長崎製作所を窓越しに見つめた。長崎港の海面に水柱が何本も上がった。
長崎新聞社は、空襲に備え油木谷(現・油木町)に印刷の疎開工場建設を進めていた。7月に輪転機1基の据え付けが終わり、8月は2基目の工事に。また別の2基を油木谷の市立商業学校体育館内に保管した。
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41年12月の真珠湾攻撃で幕を開けた太平洋戦争で、日本は42年のミッドウェー海戦を境に劣勢。サイパン島陥落をへて、44年末から日本への本土空襲が本格化した。45年7月、米英中は日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言を発表、戦争は終局に入っていた。
戦中、国は報道、出版を規制し、県内4紙は42年、「長崎日報」に統合。44年に夕刊を休止し朝刊は4ページから2ページに。45年4月から中央3紙の題字を併記した一括印刷が始まり、7月から「長崎新聞」に改題した。
紙面は同盟通信(共同通信などの前身)の配信記事や大本営発表などが軸。特別高等警察(特高)の検閲で厳しいチェックを受け、戦争末期、校正は特高が付いて輪転機そばでした。印刷直前の鉛版を削らされ、紙面に空白ができたことも。真実の報道から懸け離れた紙面作りが続き、結果的には戦争を正当化し国家が意図する一つの方向に国民を扇動する役割を果たした。
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8月8日深夜、同社の印刷工場で伊東は米国の新兵器について同僚と話しながら、空襲や長崎市の建物疎開などを伝える9日付の新聞の発送作業についた。「広島に落ちた新型爆弾ってどんなとやろうか」。7日の大本営発表で「相当の被害を生じたり」と伝わっていたが想像できなかった。
光が屋外に漏れることを禁じた灯火管制で薄暗い工場内。作業が一段落し、柱の時計に目をやると既に午前0時を回り、日付は9日に変わっていた。
同日未明、プルトニウムを使った原子爆弾(通称ファットマン)を搭載した米軍のB29爆撃機「ボックスカー」は、太平洋マリアナ諸島テニアン島を飛び立った。(敬称略)