閃光 “瞬間死”遺体群 わが子も
1945年8月9日午前11時2分、記者の中尾幸治(64年死去)は、長崎新聞社の編集局で新聞を読んでいた。「敵機1機高度に見ゆ」-。そう聞こえた瞬間、閃光(せんこう)に目がくらみ、吹き飛ばされた。戦時中、同社は長崎市大村町12番地、今の万才町の県庁新別館(県警本部隣)付近にあった。木造2階建て(一部3階)、裏手は印刷工場。爆心地から3・2キロ。
中尾の著書「遺稿 田舎記者」によると、やがて社屋の屋上では幾度も発火し、社員はバケツリレーで消火を繰り返した。騒ぎの中、中尾は社の玄関にたどり着いた全身やけどの男が「小便をかけてくれ」「城山は火の海」などとうめいたのを聞き、城山にいるわが子3人の捜索に向かった。焼け野原の浦上では”瞬間死”した黒焦げの遺体群を目撃。自宅付近で国民学校5年の奎治を焼死体で、同3年の洋子を片手だけ見つけた。末っ子で同1年の雄三は発見できなかった。
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米軍が投下した原子爆弾は、浦上地区の松山町上空500メートルでさく裂した。中空に出現した大火球は、瞬時に数百万度に達し、1秒後に直径最大約280メートルまで巨大化、収縮した。強烈な熱線と放射線は全方向へ放射され、周囲の空気は膨張、強大な爆風となった。市は、原爆直前の人口を21万人前後と推定。原爆資料保存委員会報告(50年7月発表)を基に死者は7万3884人、重軽傷者7万4909人と示しているが、正確な死傷者数は分かっていない。
爆心地付近は鎮西学院、長崎医科大、城山国民学校、浦上天主堂などが破壊。カトリック信徒は8千人以上亡くなったとされる。焼けた人々は水を求め、浦上川などで息絶えた。また離れた地域でも1時間余りして各所で火災が発生した。
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長崎新聞社販売部発送課で働く14歳の伊東稔(83)=西彼長与町吉無田郷=は夜勤明けで、西坂町(爆心地から2・1キロ)の下宿の2階で横になっていた。「ご飯食べに降りておいで」と階下の家主。その時、光に包まれ、「ザッ」という音と浮き上がった感覚がして、床や壁が崩れ落ちた。
「けがしとるぞ」。消防団員の声で意識が戻った。右腕にガラス片が突き刺さっていた。下宿は倒壊。長崎駅前付近は火の手が上がっているという。立山を回って社を目指したが、新興善国民学校から先は猛火に阻まれ、進めなかった。
(敬称略)
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広島に次いで2例目となる核兵器による市街地への無差別攻撃、長崎原爆。戦時の報道統制下、市民の情報源だった長崎新聞は45年8月10日付で、原爆投下の第一報を「被害は僅少の見込み」との見出しで誤った被害状況を報じた。
被爆、終戦70周年を来年に控え、当時を知る人々の多くは鬼籍に入り、原爆、戦争の記憶と教訓は社会的に薄らいでいる。特定秘密保護法、武器輸出三原則の撤廃、集団的自衛権行使を認める憲法解釈変更など戦後政策の大転換が進む今、被爆地の地元紙、長崎新聞の70年にわたる「原爆報道」を自戒も込めて検証し、戦争がもたらす究極の風景ともいえる原子野から何を、どう伝えてきたのかを見詰める。