この世の終わり 悟った防空壕(文教町) 築城昭平さん(87) =長崎市ダイヤランド2丁目= 真っ赤な幽霊のような姿
長崎市文教町の市立西浦上中。クラブ活動に汗を流す生徒の元気な掛け声が聞こえてくる。あの日とはあまりにも対照的な、平和な日常。
原爆と聞くと、地獄と化した防空壕(ごう)の情景が脳裏に必ずよみがえる。18歳だった。長崎師範学校に通っていたが、学徒動員で三菱兵器住吉トンネル工場に勤務。夜勤を終え、文教町の寮(現西浦上中、爆心地から1・8キロ)に着いたのは午前7時ごろ。いつも通りカボチャを食べて、同9時ごろ布団に入った。
激しい爆風とともに壁に打ち付けられた。気が付くと窓ガラスの破片が全身に突き刺さって大量出血。頭部から流れる血は目に入り、視界を遮った。熱風で左腕と左足は重度のやけど。ガリガリガリと家が倒れるような音がして危険を感じた。止血のため、同僚と寮のすぐ近くの防空壕に向かった。
防空壕に着くと、皮膚がはがれたり、鼻や耳がなくなったりして、全身血で真っ赤に染まった幽霊のような人が大勢いた。壕の奥からはうめき声。やけどで女性かどうかさえ分からない母親が、死んだ子を抱えている。血の臭いが充満し、この世の終わりを悟った。中に入れず、寮も炎が上がりはじめたため緊急の療養所となった長与国民学校へ。着いたころには日が暮れていた。
治療を受け、翌日、長与の家族の自宅に引き取られた。放射能の影響で、10月上旬まで下痢や高熱に見舞われた。寝たきりの人が死んだと聞くたびに、「次は自分の番」と何度も死を覚悟した。
今、西浦上中の中庭では生徒たちがソフトテニスに熱中している。子どもたちには同じ経験をさせない日本であってほしい。そう強く思う。