焼け野原を見渡した大橋付近(三芳町) 松尾幸子さん(80)(旧姓西尾)=長崎市本原町= 異様な静けさ 黙り込む
川のせせらぎに、行き交う車と電車の走る音が重なる。長崎市の浦上川に架かる大橋付近はにぎやか。JR長崎線の高架下(爆心地から約600メートル)に立ち、大橋町の自宅があった方向を見つめる。原爆投下翌日に訪れたとき、何の音もせず、静まり返っていた。重い静寂こそが何よりも雄弁に、原爆の威力を物語っていた。
11歳の少女だった。自宅では20人近くが暮らしていた。あの日は、避難用に父吉次郎が建てた岩屋山中腹の小屋に、祖母ワキと母ナツ、きょうだいたちといた。数日前から日中は小屋で過ごしていた。休んでいると閃光(せんこう)が走り、少し遅れてドーンという音がした。気がつくと小屋は吹き飛ばされ、土の上に立っていた。
数時間して、けがを負った父がたどり着いた。夕方、いとこたちも来て自宅の焼失、姉や兄嫁の死、兄2人の行方不明を知らされた。
翌朝、いとこたちと下山。父は山に残るように言ったが、隠れる場所がなくて怖かったし、自宅がどうなっているのか自分の目で確かめたかった。途中、死体を見たが、恐ろしくて直視できなかった。
大橋の鉄橋付近の土手を上ると、焼け野原になった町が眼前に広がった。想像をはるかに超える光景に黙り込んだ。異様な静けさが胸に迫り、ぼうぜんと立ち尽くした。
落胆して江里町の防空壕(ごう)に向かうと、道ノ尾方面から来た列車が近くで止まり、汽笛を鳴らした。行ってみるとおにぎりを配っていた。原爆投下後、初めて口にした食事だった。今でも忘れられない。
その後、親戚がいる西彼時津町に移った。父は下痢と熱に苦しみ、8月28日に亡くなった。再び大橋町に戻ったのは翌年の春だった。