松尾保昭さん=長崎市鳴滝2丁目= 友と分かつ穏やかな時
「川でハゼやエビを捕まえて回った。懐かしかね」-。戦前の鳴滝を、松尾保昭(82)=長崎市鳴滝2丁目=は写真を手に振り返る。自宅前の橋や川が遊び場。「近所の子どもたちは本当に仲良しだった」
写真の中央で帽子をかぶっているのは、仙台市在住の日下修一(79)。父親は転勤族でカメラが趣味。家族や子どもらをよく撮影していた。1937(昭和12)年ごろ、松尾宅の斜め前に転入した。戦争に突入する前の鳴滝での穏やかな日々。「裏山はビワ畑で、川にはホタルもいた」
41年12月、松尾が通学していた伊良林小では中庭に全校児童を集め、日本軍の真珠湾攻撃をラジオで伝えた。「日本は勝つ。勝つんだ」。高揚感を抱いた。みんなでよく軍歌を歌った。
日下一家は44年3月、長崎を離れ、東京へ。そして戦況は悪化。松尾は爆心地から3・3キロの自宅で被爆した。13歳で旧制海星中1年。満州の長兄以外は、家族の無事が確認できた。終戦後、授業は再開されたが、教室の空席がやけに寂しかった。
松尾と日下。2人はそれぞれ、戦後と高度経済成長期を経て、生きてきた。そして日下は20年ほど前、長崎を訪れる機会をとらえ、記憶の片隅にあった鳴滝を訪問。松尾の家は、その場所にあった。半世紀ぶりの再会に感動が込み上げた。
後日、日下は父が撮影し母が大切に保管していた戦前の長崎時代の写真、フィルムを松尾に郵送。家族写真が中心だが紙焼きの裏には「検閲済 長崎要塞(ようさい)司令部」の印。国の規制や管理が市民生活を覆っていたことをうかがわせる。
松尾は、特高警察や憲兵隊の息苦しい雰囲気を覚えている。そして「戦争のできる国になり、軍国主義につながらなければいいが」と、今の日本を心配する。
懐かしい過去には一時期、確かに子どもたちにとって平和な時間が流れていた。しかし戦争や原爆で多くの友が命を落とした。「子どもたちの平和のために大人は何ができるのか」。写真を見詰め、松尾はそうつぶやいた。=文中敬称略=
◎「長崎の記憶」 写真募集
2015年の被爆・終戦70周年に向けて、長崎新聞社は12年から、個人で撮影、保管する戦前、戦中、被爆後から昭和30年代までの長崎市と近郊部の風景、生活などが分かる写真を募集しています。被爆者や戦争体験者の高齢化が進む中、貴重な過去の長崎の写真の散逸を防ぎ、未来に向けて画像データとして保管するのが目的です。社がスキャナーで保存し、写真自体は郵送か直接お会いして返却しています。
提供方法は、撮影時期、場所、撮影者、写真にまつわる話、住所、氏名、年齢、職業、電話番号を別紙に明記し、写真と同封。送付先は〒852-8601、長崎市茂里町3の1、長崎新聞社報道部「長崎の記憶」写真募集係(郵送代は自費)。問い合わせは報道部(電095・846・9240)の山田。