被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第3部「よみがえる絆」
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旧浦上天主堂の前にて=長崎市本尾町(満田義明さん提供)

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被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第3部「よみがえる絆」 3 満田義明さん=西彼長与町= 敗戦の傷 癒やす交流

2014/03/26 掲載

被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第3部「よみがえる絆」
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旧浦上天主堂の前にて=長崎市本尾町(満田義明さん提供)

満田義明さん=西彼長与町= 敗戦の傷 癒やす交流

写真は1本柱の山王神社二の鳥居。原爆から3年ほど後の撮影と満田義明(80)=西彼長与町三根郷=は記憶している。「冬だったかな」。1948年末なら、新制の長崎東陵中(現・長崎南山中)3年。隣に立つオーバー姿の若者は、三菱重工長崎造船所に実習に来ていた大島商船学校(山口県大島郡)の学生、兼本。名字しか覚えていない。

満田は佐世保市出身で、4歳のころ、父が川南工業香焼島造船所に転職。家族で長崎市飽の浦町に移り住んだ。原爆投下時は国民学校6年生で、爆心地から3・2キロの自宅にいた。飛行機の音を味方と思い、玄関を出ようとした瞬間、白い閃光(せんこう)と爆風に襲われた。けがはなく家族も無事だった。

敗戦は、避難先の佐賀県内で知った。帰郷後も貧しく「雑草で飢えをしのいだ」。47年ごろ、兼本らと知り合った。学生寮が自宅近くにあり、休日には苦手な数学や英語を教えてもらい、かわいがられた。

敗戦の傷と悲しみが長崎を包む中、兄のような兼本らと心を通わせる日々が素直にうれしかった。「あのころは誰もが原爆や戦争で傷を負っていた。学生たちの存在に支えられた」

ある日、兼本らが提案した。「浦上の辺りに行ってみないか」。原爆の被害を知っておくべきと感じていたのではないか。別の学生を含む3人で見て回った。二の鳥居、そして破壊された旧浦上天主堂の前でも撮影。復興には程遠い状況だったはずだが、ほとんど記憶に残っていない。

兼本とは次第に疎遠になった。満田は62年に結婚。3人の子どもに恵まれ、孫は7人。「今、幸せな毎日を送っている。兼本さんたちへの感謝は尽きない。どこでどうしているだろう」

鳥居は昨年、国登録記念物になったが、旧浦上天主堂は取り壊され、新たな天主堂が再建されている。

人間はさまざまなことを忘れていく。満田は写真を手元に残していたから、兼本との記憶をとどめることができた。「被爆者はいつかいなくなる。原爆を忘れず記憶し続けるには、被爆の遺構を残していくことが今後もっと大切になるのではないか」=文中敬称略=