三藤義一さん=西彼長与町=(下) 兄の人生を残したい
三藤義一(88)=西彼長与町高田郷=は、9歳上の兄、源四(げんし)が戦死した話になると涙をこらえ切れなくなる。死別から70年近く。義一は記憶をたどりながら「自慢の兄」について語り始めた。
源四の戦死は、戦場から戻ったいとこが1946年5月、母ミツに伝えた。その翌日、義一がスマトラから帰還した。
母は戦時中、空襲警報が鳴り響くたびに息子たちからの手紙を懐に入れ、避難するような人だった。家財道具が燃えても写真と手紙だけは守ろうとした。「兄の戦死を知り、翌日に私が戻ってきたあのとき、母親はどんな気持ちだったか…」。義一は涙で言葉が続かなかった。
47年、遺骨の代わりに源四の切断された指だけが帰ってきた。いつどこで戦死したのかさえ分からないまま。
義一は源四の死を調べることを決意。戦死者の公式の記録を探したり、源四のかつての上司に手紙を出したりした。55年には久留米であった慰霊祭に参加し、「三藤源四のことをご存じないですか」と書いた紙を胸に貼って情報を求めたこともあった。少しでも手掛かりになりそうなことがあれば、どこへでも行った。
集まった情報をつなぐと-。源四は45年1月31日、ビルマの山で戦死。28歳だった。機関銃の弾が頭を貫通し、即死だったらしい。こんな話も聞いた。戦死する8カ月ほど前、ビルマで日本軍は敵軍に攻め込まれ、多くの負傷者が出ていた。分隊長だった源四は、軍の全滅を避けようと軍隊経験が浅い2人に退却を指示した。誰もが生きて帰りたかったはず。このとき、源四は難を逃れたが、義一は源四の勇気を誇りに感じている。
義一は今、源四の写真や戦場から送られてきた手紙などを整理し、保管している。「参拾円を送りました。美代子ちゃん(めい)始め皆で何かおいしいものでも買って下さい」と記されたはがきもある。家族思いで絵が上手だった兄。自宅に帰ると、すぐに名前を呼んでくれた兄。きょうだいの中で一番気が合った。義一は、20代の源四の写真を手に語る。「兄の人生を残していきたい」
=文中敬称略=