被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第3部「よみがえる絆」 1

軍隊への入営を祝って立てられたのぼりと故三藤源四さん=1938年1月、長崎市五島町(三藤義一さん提供)

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被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第3部「よみがえる絆」 1 三藤義一さん=西彼長与町=(上) 兄は母に会えず出征

2014/03/24 掲載

被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第3部「よみがえる絆」 1

軍隊への入営を祝って立てられたのぼりと故三藤源四さん=1938年1月、長崎市五島町(三藤義一さん提供)

三藤義一さん=西彼長与町=(上) 兄は母に会えず出征

哀れな人生だったなと思う。三藤義一(88)=西彼長与町高田郷=は、9歳上の亡き兄、源四の写真を見詰め、つぶやいた。「兄が20代のうち、家族と過ごせたのはたった3カ月。不運だった」

9人きょうだいで源四は次男、義一は四男。戦前の1938(昭和13)年1月、源四20歳。徴兵検査で甲種合格し、大村の陸軍歩兵第46連隊に入隊する前に撮った一枚。長崎市五島町の自宅前に町旗とともに立てられたのぼりには、「祝三藤源四君之入営」と記されている。

入隊は祝いごとだった。出発前夜は家族や親戚が集まって酒を飲み、歌った。源四は人気歌手、上原敏の「裏町人生」を選んだ。その時の心情を表していたのか、それとも単に流行していたからなのかは分からないが、決して明るい歌ではなかった。当日は、日の丸の小旗を振って盛大に見送った。

満州で約3年間、国境警備に当たり、満期除隊。ようやく帰郷して3カ月後の41年7月、源四に今度は召集令状が届いた。「ああ、来たか」。源四は小さくつぶやいた。間もなく、待機先の久留米に向けて出発。まだ太平洋戦争は始まっていない。誰もが深刻に考えていなかった。

12月、開戦。翌年2月、久留米の源四から母ミツにはがきが届いた。どこでも買えるはずの軍手を、わざわざ長崎から持ってきてほしいという。今思えば、戦場に赴く前に一目、母に会いたかったのだろう。一人で死の恐怖と向き合っていた源四の最後のわがままだったのかもしれない。だが当時、義一も母も隠された気持ちに気づいてあげられなかった。行こうとする母に義一は「今度の日曜でよかさ」と助言した。結局、母が久留米を訪ねたとき、源四はビルマにたった後だった。今も悔やみきれない。

44年、高校を卒業した義一は陸軍省に入り、スマトラに赴任した。源四と義一。二人が会うことは二度となかった。=文中敬称略=

2015年の被爆・終戦70周年に向けて、長崎新聞社は12年から個人所有の戦前~戦後の長崎の写真を募集している。写真と提供者を紹介する「長崎の記憶」第3部は、親兄弟や知人らとの絆を追想する四つのエピソードを紹介する。