敗戦 人命軽視の軍に憤り 「戦争やってはいけない」
1945年8月13日。紫電改を操縦する本田稔(90)は豊後水道上空で敵1機を発見し背後についた。若いパイロットで余裕がないのか、振り向きもしない。「早く気付いて逃げろ」「逃がすわけにはいかない」-。複雑な思いが交錯する中で撃った。胴体と翼が分離して落ちた。最後の戦果。「それまで敵を落とすことは何とも思わなかったが、なぜかためらった」。撃ち落としたことを今でも後悔している。
15日、3年8カ月に及んだ太平洋戦争が終わった。「負けるとは思ってなかった。頭が真っ白になった」
その数日後。「(源田實)司令は自決する。お供する者は道場に集まれ」。「零戦最後の証言」(光人社)などによると、大村市の第343海軍航空隊のパイロットはこう命じられ、その夜、同市福重地区の健民道場(当時)に本田を含む約20人が集まった。「ついに刀折れ矢尽きた」と源田。皆が拳銃に弾をこめるなど準備すると「待て」の号令がかかり、「皇統護持作戦」が明かされた。
連合軍による天皇制の処遇が不透明として、万一の場合、皇族を絶やさないよう子弟をかくまう計画。本田は「異様な空気だった。思い出したくない」と多くを語らない。だが天皇制は存続し、計画は消えた。
その後、航空自衛隊の教官や民間のテストパイロットを務めた。「戦中は毎日誰かが死に、いろいろ考える余裕はなかった。だが戦後、日本はおかしなことが多かったと気付いた」
本田の考えはこうだ。そもそも日本の国力では米軍に勝てなかった。日本軍なら造るのに何カ月もかかる飛行場を、相手が1週間ほどで造ったのを見て大きな差を感じた。多くの空母を失った42年6月のミッドウェー海戦など、戦争をやめるタイミングも逃した。
特攻は熟練者が操縦する重い飛行機でやらないと成果は出ないと思っていたが、実際には未熟なパイロットが機体の軽い零戦で突っ込み、敵艦に届く前に撃ち落とされることも多かった。一時、教官をした際、司令に「特攻要員の学生には離陸だけ教えればいい」と言われた。「そんな教育はできない」とかみついたら「生意気だ」と戦地に飛ばされた。そして戦地では、落下傘で降下する味方を見つけたら捕虜にならないよう撃ち落とせと言われた。
「負けは目に見えていたのに、勝つと信じて戦った」とむなしさを口にする。そして何より「日本軍の人命軽視は甚だしかった。空襲や原爆で多くの非戦闘員まで犠牲になったのに誰も責任を取ろうとしなかった」と軍の”無責任体質”への憤りは消えない。「戦争はやってはいけない」。無念さと不戦の願いを胸に、終戦68年目の夏を過ごしている。=文中敬称略=