本土防衛 最新鋭 紫電改で抗戦 “多勢に無勢” 部隊消耗
1944年後半、米軍は西太平洋の「マリアナ沖海戦」で日本海軍に圧勝し、サイパン島、テニアン島などを相次ぎ占領。後に日本の本土空襲を激化させ、原爆も投下した爆撃機B29の出撃拠点を確保した。追い込まれていた日本軍はその後、特攻隊まで投入するようになった。
こうした中、大本営航空主務参謀の源田實は12月25日、本土防衛部隊「第343海軍航空隊」(剣部隊)を編成。源田は著書で「たとえ数は少なくても、見つけた敵機を片っ端から撃ち落とし、進撃を食い止める」と狙いを説明している。熟練パイロットを集め、自ら司令に就き、愛媛県の松山航空基地に拠点を置いた。本田稔(90)も一員となった。
零戦を上回る馬力と攻撃力、防弾装備を備えた最新鋭戦闘機「紫電改」を中心に3飛行隊に二十数機ずつ配備。本田は「とにかくいい戦闘機だった」と語る。主に鹿児島県・喜界島までの九州を舞台に、B29や戦闘機グラマンF6Fヘルキャットなど、多いときは数百機単位の「空が真っ黒になるほどの大編隊」(本田)の迎撃に向かった。
剣部隊の初陣は45年3月。「戦史叢書 本土方面海軍作戦」(朝雲新聞社)によると、四国上空でF6Fなど約100機を発見し51機が出撃。敵を42機撃墜し、味方の被害は17機にとどめ「航空兵力による久々の戦勝」とされた。
米軍は4月に沖縄上陸。来襲が激化すると、部隊は間合いを取るため鹿児島県の鹿屋、国分を経て4月末、大村市の大村海軍航空基地へ拠点を移し抗戦した。
本田は「特にB29を落とすのが難しかった」と振り返る。全長は紫電改の3倍の約30メートルで防御力に優れ、四方八方に射撃するためうかつに近づけなかった。
ただ「真上からの攻撃に対応しにくそうだった」。高度約8千メートルのB29のさらに約2千メートル上空から背面で急降下し、弾幕をぬって射撃、相手の目の前を垂直に抜ける方法を取った。「体当たり寸前。急降下時の重力は気を失うほどだった」。この戦法を5、6機連続で仕掛け、1機落とせるかどうかだった。
「三四三空隊誌」によると、部隊は発足から終戦までの約8カ月間で敵機170機を撃墜。一方、パイロット・地上員ら161人を失った。勢いを増す米軍。”多勢に無勢”で部隊は消耗した。本田はある戦闘時に弾が切れ、敵機6機に追われ「もうだめか」と思ったが、何とか振り切ったという。
=文中敬称略=