ガダルカナル島の戦い 奪還へ厳しい消耗戦 零戦の退潮 追い打ち
ガダルカナル島奪還のため、日本軍の航空隊は約千キロ離れたニューブリテン島・ラバウルから連日出撃した。本田稔(90)は1942年10月から参戦、零戦で爆撃機などを援護した。
20~30機で3時間半かけガダルカナルへ。空中戦は燃料の都合で原則5分。また3時間半かけて帰った。「食料事情が悪く、夜は暑くて眠れない。長時間搭乗で尻は紫色で腐ったようになった」。消耗戦だった。
飛行中に居眠りして墜落したり、雲の中で方向を見失い未帰還となるパイロットも多かった。海に不時着した先輩の零戦にサメが群がり、射撃して追い払ったこともある。
現地で腹膜炎の手術を受けて間もないころ、敵哨戒機を迎撃した際、空中戦の重力で傷口が開き腸が出てきてしまった。その腸を片手で押さえて何とか操縦し、飛行場へ戻った。
消耗戦に追い打ちを掛けるように当初「敵無し」だった零戦の退潮が始まる。
本田は、敵の弾が操縦席の床に穴をあけ、足元から海が丸見えとなる被害も受けたが「最初のころは5機撃墜した」。だが42年夏、米軍が別の戦地で不時着した零戦を入手。軽量で急降下時にあまりスピードを出せず、防弾装備もないため炎上しやすいなど弱点を突き止めた。米軍機は1対1を避け編隊で攻撃。後ろにつかれると猛スピードで急降下して逃げ始めた。
本田は敵の正面に突っ込み射撃、直前で体をかわす攻撃を考えた。「互いに500~600キロの速さで近づく。危険だが、こうしないと戦えなかった」。司令部には防弾装備を求めたが「何も変わらなかった」。
ガダルカナル島の奪還は米軍の反攻に加え、同島に上陸した日本兵への補給が遮断され、餓死者が続出するなど困難を極めた。結局43年2月に撤退。日本軍は犠牲者2万人以上、艦艇24隻、航空機約900機を失ったとされる。
4月18日。連合艦隊司令長官の山本五十六は前線視察のため飛行機でラバウルから南東のブーゲンビル島・ブインへ向かった。
ブインには次の作戦に備え、本田ら150機の零戦隊がいた。突然、空襲警報が出て本田の零戦は一番に飛び立ったが、山本を乗せた飛行機は煙を吐いてジャングルへ墜落。米軍機の奇襲だった。「ボスが死んだ。ショックだった」
本田は5月にラバウルを去り、国内勤務となった。激戦を物語るように、身長約160センチに対し体重は55キロから47キロへ落ちていた。
=文中敬称略=