戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 1

飛行訓練をしていた18歳のころの本田さん(後列中央)。他4人は全員、戦死したという(本田さん提供)

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戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 1 太平洋戦争勃発 緒戦は零戦が圧倒 「早く行かないと終わる」

2013/08/13 掲載

戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 1

飛行訓練をしていた18歳のころの本田さん(後列中央)。他4人は全員、戦死したという(本田さん提供)

太平洋戦争勃発 緒戦は零戦が圧倒 「早く行かないと終わる」

1945年8月15日正午、大村海軍航空基地(現・大村市富の原周辺)。本土防衛の精鋭部隊「第343海軍航空隊」の指揮所では、昭和天皇が終戦を告げる玉音放送が流れていた。

当時22歳で戦闘機パイロットだった元少尉、本田稔(90)=滋賀県大津市=もその場にいた。「ラジオがよく聞こえず何を言っているのか分からなかった。『しっかりやれ』とでも言っているのかと」。だが、敗戦と分かった。進駐軍にパイロットだとばれたら何をされるか分からない。飛行服や写真を急いで焼いた。

「日本の武力で米軍に太刀打ちできるはずがなかった。戦争をやめるタイミングを失い犠牲者が増え、原爆まで落とされた」。戦後はそう思うようになった。

本田は故郷の熊本県で旧制中学5年、16歳のとき、将来の海軍中間幹部を養成する甲種飛行予科練習生の試験を受験。同県で250人が受け、合格者は本田を含め8人だった。茨城県の谷田部航空隊では、93式中間練習機(赤トンボ)で飛行中、操縦が悪いと後部座席から棒で頭をたたく鬼教官がいた。痛かったが「操縦の基本は教える。だが、まねをするな。本田は本田の操縦をやれ」とも教わった。「今生きているのも自分で考えることを学んだからこそ」と振り返る。

大分航空隊で戦闘機訓練を終える直前の41年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。「早く行かないと戦争が終わる」。戦地勤務を志願し、台湾の戦闘機隊に配属。所轄の佐世保鎮守府へ寄り、長崎丸で出発した。部隊は移転し42年2月、インドネシア・ボルネオ島のミリで合流。19歳だった。初めて零戦を操縦した。「機体が軽く操縦しやすい。上昇、下降、宙返りも思い通り。素晴らしい飛行機だった」

ある日、3機編隊で哨戒中、低空飛行の英軍機2機を発見。1機を任されたが、いくら撃っても当たらず弾が切れた。それでも追い掛けると「相手は操縦を間違えて勝手にジャングルに落ちた」。初の戦果はあっけないものだった。

一方、同僚や原住民とポケットモンキー狩りをしようとジャングルに入ったとき、敵機が来襲。飛行機に飛び乗った同僚は爆撃を受け、胸の肉が吹き飛び肺が露出。病院に運んだが、部隊初の犠牲者となった。

緒戦、零戦の長い航続力や運動性能は連合国軍の戦闘機を圧倒。日本軍がインドネシア、マレーシア、フィリピンなど東南アジアの連合国植民地を一気に占領した際も活躍した。本田は哨戒に当たったが、日本軍の攻勢が続き、「敵機はあまり見なかった」。

だが転換期が訪れる。42年8月、米軍が南太平洋ソロモン諸島・ガダルカナル島の日本軍飛行場を占領。争奪戦となった。本田は10月に参戦。厳しい戦いが始まった。=文中敬称略=

約310万人の国民が犠牲となった太平洋戦争の終結から15日で68年。零戦や紫電改で激戦を重ね、広島、長崎の原爆も体験した本田稔さん。その記憶をたどる。