ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 3

第3回国連軍縮特別総会の歓迎会で歓談する当時の本島市長(右)と下平さん=1988年6月、米ニューヨークの国連本部(下平さん提供)

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ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 3 発信 運動先駆者“父”が模範 35年前、語り部に

2013/08/06 掲載

ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 3

第3回国連軍縮特別総会の歓迎会で歓談する当時の本島市長(右)と下平さん=1988年6月、米ニューヨークの国連本部(下平さん提供)

発信 運動先駆者“父”が模範 35年前、語り部に

母も赤く燃えた。

姉も赤く燃えた。

そして、わずかな骨になった-

被爆医師の永井隆が1949年に出版した山里小の児童たちの手記「原子雲の下に生きて」。6年の1学期から同校に移った下平作江(78)も、爆心地から800メートルの防空壕(ごう)で被爆した状況を克明につづった。「今思えば、伝える原点。ただ(育ての)母と姉が黒焦げだったとはなぜか書けなかった」。手記は月刊の女性雑誌にも掲載された。

一方、育ての父、滝川勝=82年に死去=は被爆者運動の先駆者の一人。町内会の副会長をしていた長崎市駒場町(現松山町)で、放置されていた原爆犠牲者の遺骨を供養するため碑と納骨堂を建立したり、山口仙二=今年7月に死去=らと長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の結成を呼び掛けたりした。浦上川の万灯流しも被爆の翌年に自主的に始めたという。滝川の姿は下平の模範となった。「家庭では厳しかったが、人のために尽くそうとする姿勢を見習いたいと思った」

下平が表舞台に立つのは80年代。81年の平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を朗読。翌年、米ニューヨークであった第2回国連軍縮特別総会には、渡辺千恵子、秋月辰一郎らと派遣団に加わった。88年の第3回総会にも参加し、当時の本島等長崎市長らと歓迎会に招待された。

95年度から14年間は長崎原爆遺族会の会長を務め、被爆者五団体の一員として援護策の拡充などを訴えた。当時副会長として下平を支えた現会長の正林克記(74)は「被爆者の悩みをすすんで背負う姿勢が周囲の信頼を集めた」と語る。

語り部活動を始めたのは35年ほど前。最初は修学旅行で長崎を訪れた大阪の中学校だった。高度経済成長期に育った生徒たち。男子はズボンをずり下げ「何をしゃべるんじゃ」「聞いちゃるけ」と突っ張っていた。原爆投下で地獄と化した防空壕、食糧不足で歯を食いしばり生きた時代…。下平は、記憶を頼りに涙ながらに語った。男子も涙を流していた。

「つらい体験談を真剣に聞いてくれて、思いが届いたことを実感した。戦争の愚かさを語り継いでいかなければと決心した」。語り部がほとんどいなかった時代。要望を受ければ、遠方でもできるだけ応えるようにした。=文中敬称略=

姉も赤く燃えた。

そして、わずかな骨になった-

被爆医師の永井隆が1949年に出版した山里小の児童たちの手記「原子雲の下に生きて」。6年の1学期から同校に移った下平作江(78)も、爆心地から800メートルの防空壕(ごう)で被爆した状況を克明につづった。「今思えば、伝える原点。ただ(育ての)母と姉が黒焦げだったとはなぜか書けなかった」。手記は月刊の女性雑誌にも掲載された。

一方、育ての父、滝川勝=82年に死去=は被爆者運動の先駆者の一人。町内会の副会長をしていた長崎市駒場町(現松山町)で、放置されていた原爆犠牲者の遺骨を供養するため碑と納骨堂を建立したり、山口仙二=今年7月に死去=らと長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の結成を呼び掛けたりした。浦上川の万灯流しも被爆の翌年に自主的に始めたという。滝川の姿は下平の模範となった。「家庭では厳しかったが、人のために尽くそうとする姿勢を見習いたいと思った」

下平が表舞台に立つのは80年代。81年の平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を朗読。翌年、米ニューヨークであった第2回国連軍縮特別総会には、渡辺千恵子、秋月辰一郎らと派遣団に加わった。88年の第3回総会にも参加し、当時の本島等長崎市長らと歓迎会に招待された。

95年度から14年間は長崎原爆遺族会の会長を務め、被爆者五団体の一員として援護策の拡充などを訴えた。当時副会長として下平を支えた現会長の正林克記(74)は「被爆者の悩みをすすんで背負う姿勢が周囲の信頼を集めた」と語る。

語り部活動を始めたのは35年ほど前。最初は修学旅行で長崎を訪れた大阪の中学校だった。高度経済成長期に育った生徒たち。男子はズボンをずり下げ「何をしゃべるんじゃ」「聞いちゃるけ」と突っ張っていた。原爆投下で地獄と化した防空壕、食糧不足で歯を食いしばり生きた時代…。下平は、記憶を頼りに涙ながらに語った。男子も涙を流していた。

「つらい体験談を真剣に聞いてくれて、思いが届いたことを実感した。戦争の愚かさを語り継いでいかなければと決心した」。語り部がほとんどいなかった時代。要望を受ければ、遠方でもできるだけ応えるようにした。=文中敬称略=