ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 2

妹の遼子さんの精霊船を前に集合写真に納まる20歳のころの下平さん(後列中央)=1955年8月、長崎市駒場町(下平さん提供)

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ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 2 困窮 「死ぬ勇気」選んだ妹 何もしてやれず

2013/08/05 掲載

ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 2

妹の遼子さんの精霊船を前に集合写真に納まる20歳のころの下平さん(後列中央)=1955年8月、長崎市駒場町(下平さん提供)

困窮 「死ぬ勇気」選んだ妹 何もしてやれず

長崎原爆遺族会顧問の下平作江(78)は現在、修学旅行生や地元の小中学生らに年間350回ほど被爆の状況を伝えている。感情を押し殺すように比較的穏やかに話を進めるが、決まって一呼吸置く場面がある。

「残念ながら、妹は死ぬ勇気を選びました」

被爆から10年後。20歳の下平は長崎市駒場町(現在の松山町)のバラックで18歳の妹遼子と2人、親戚から食べ物をもらったり、拾ったりしながら暮らしていた。それでも下平は短大、妹は高校の苦学生だった。

困窮は被爆者全体の問題。家族を戦争で奪われた育ての親、滝川勝は被爆者の結束を図ろうと「長崎戦災者連盟」の設立に携わり、生活物資の配布や建築資金の貸与に取り組み、治療費の免除を国に求めていた。

下平は滝川に頼まれ、同連盟の活動費を稼ぐため、進駐軍の滑走路跡にできた競輪場内の売店を手伝った。そこで売るまんじゅうは、後に被爆者運動の「顔」となる山口仙二の店から仕入れていた。

帰宅した夕方、誰かが叫ぶ声が聞こえた。「今度は若い女の子だぞ」。バラックから見える国鉄の線路では、病気や貧困に苦しむ被爆者の、列車への飛び込み自殺が後を絶たなかった。妹がいないことに気付き、線路沿いの人だかりを目指した。「姉ちゃん、一緒に死のう」。そう言っていた妹の顔がよぎった。

黒光りの蒸気機関車(SL)は、一人の女子高生を巻き込んでいた。頭も腕も足もバラバラ。腐ったような腹部の傷で妹と分かった。「何で」。泣き崩れるしかなかった。

当時、妹は盲腸の手術の傷がなかなか治らず悩んでいた。治療費はなかった。傷をかきむしり、うじ虫が湧いていた。バラックで夜中、「くちゅくちゅ」と、うじ虫が肉をむしばむ音を下平は寝床で何度も聞いていた。何もしてやれなかった。

妹の遺体はリヤカーで1人、火葬場に運んだ。翌日、事故現場に立った。黒煙を上げて突進してくるSL。足が震え、線路脇に転げ落ちた。死ねなかった。

下平は妹とバラックで暮らし始めたころのことを思い出した。原爆投下の翌年の春。11歳の下平は9歳の妹を連れ、バラックに入った。当時2人とも鼻血が出たり、髪の毛がたくさん抜けることがあった。一緒に山里小に通ったが、いつもひもじかった。パンやソーセージなど兵士の食べかすを拾い、雑草を集めてスープに入れたり、浦上川で貝を掘ったりした。そうやって支え合って生きてきた妹は、もういない。=文中敬称略=