壮絶 防空壕 一瞬で地獄に “兄”助言 生死分ける
「あいつがやれば僕もやる みてろ今度の激戦に-」。昼下がり、お年寄りが集うカラオケ喫茶。上ずった声が幾重にもこだまする。
被爆者の下平作江(78)=長崎市油木町=は月に数回、自宅近くのこの店に友人と来る。藤山一郎の「長崎の鐘」や川中美幸の「ふたり酒」を好んで歌うが、欠かせない”懐メロ”は「上海だより」や「麦と兵隊」。どちらも軍歌だ。
「子どものころ、出征する人に生きて帰ってきてほしいと願って歌ったのに、かなわなかった。誰ひとり。その無念を忘れてはいけない。原爆犠牲者、戦争で亡くなった人を思い出すために歌う」
戦中、父は満州で死亡。母は満州に残ることを選び、5歳の下平は3歳の妹遼子と二人、長崎市駒場町(現在の松山町)の親戚、滝川勝宅に引き取られた。68年前、城山国民学校5年で10歳だった。あの日、夜明け前、空襲警報のサイレンで目覚めた。滝川の長女本田貞子の赤ちゃんをおんぶし、近所の友達と一緒に防空壕(ごう)に向かった。
数時間後、大声で告げて回る大人の声が聞こえた。「空襲警報解除」。子どもたちは暗い壕から元気に外へ飛び出した。ついて行こうとしたが、妹に服をつかまれた。「兄ちゃんの言うこと聞かなきゃ」。兄ちゃんとは、同居していた滝川の次男益一。前夜、「広島に新型爆弾が落とされたらしい。空襲警報が解除になっても防空壕を出たらつまらんぞ」と言われていた。
そして午前11時2分。いくつもの雷が同時に落ちたような光と息もできないくらいの爆風に襲われた。爆心地から800メートル。壁にたたきつけられ、気絶した。
どれくらいたったか分からない。「しっかりしろ」と言われ、気付くと暗闇は一変。目玉が飛び出た人、黒焦げの体が膨れ上がった人などが多く押し寄せ、地獄へと変貌していた。飛び出た内臓をぶら下げ、「俺を殺してくれ」と怒鳴る人もいた。
妹は壕の端に吹き飛ばされ気絶していたが、必死にたたくと目を開けた。赤ちゃんは畳の下敷きになり、うなり声を上げていたのを助け出した。
益一は、長崎医科大(現在の長崎大医学部)で被爆し10日、壕にたどり着いたが翌日絶命した。「母ちゃん」と慕っていた滝川の妻美和は自宅(爆心地から300メートル)近所で、貞子は自宅で、それぞれ黒焦げで見つかった。=文中敬称略=
2015年の被爆70年に向けて、「老い」と向き合う被爆者の思いや生きざまを伝えるシリーズ「ナガサキの被爆者たち」。3人目は、被爆者運動に初期から携わり、今も語り部活動を精力的に続ける下平作江さんを取り上げる。