良妻賢母と竹馬の友 「来世でも一緒に撮りたか」
「自分にはもったいないくらい、いい妻だった」
被爆から10年が経過した1955年11月3日、27歳だった吉川勝己(84)=長崎市大浜町=は入院時に知り合った看護婦のトク子と結婚。3日間、親戚や会社の同僚を実家に招き、式を挙げた。翌年、長女の恭子、その4年後に長男浩史が誕生。幸せを手に入れた。
トク子は良妻賢母で優しかった。家族の大切な時間が流れ、孫は5人、ひ孫は1人いる。2011年10月2日、トク子は80歳で亡くなったが、吉川は妻の写真を今も大切にしている。
同年12月、親友の一ノ瀬明彦も亡くなった。1954年に撮影した写真には、端島(軍艦島)のドルフィン桟橋を渡る一ノ瀬の後ろ姿が納まる。見詰めながら、一ノ瀬の存在の大きさを思い返す。復興過程の長崎で、戦争や原爆についてあえて語らず、共に撮影を楽しんだころ。当時の自分は一ノ瀬によって救われた。
葬儀では、思い出の写真をひつぎに入れた。「安らかに眠ってくれ」と語り掛けながら。吉川はしみじみと語る。「来世でも一緒に写真を撮りたか」
2012年度から始まった長崎新聞社の「『長崎の記憶』写真募集」。紙面で知った吉川は同年6月、一ノ瀬が写り込んだ1枚を含む昭和30年までの家族写真や思い出の風景写真を数枚、同社に提供。画像データとして保存された。
写真を撮り始めてから60年以上。カメラは吉川の人生を支えた。楽しみのない時代、何を写すか、どこに行こうかと考える時間が、戦後の複雑な心情を和らげてくれた。当時、カメラは珍しく、レンズを向ければ皆、笑顔になった。
原爆投下から68年目の8月9日が近づく。あの日、非道な殺され方をした人々の情景を見た。恥ずかしがり屋の弟は、幸せを手にすることなく逝った。そして吉川は、そのことを語らず生きてきた。
トク子が元気だったころ、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典には毎年一緒に参列してきた。「自分の中で行くことに決まっているから」とだけ話す。
「今年は一緒に行こうか」。長女の恭子(56)に声を掛けた吉川。少し考えて、こう付け加えた。「たとえ俺が死んでも毎年、必ず出席してくれよ」
=文中敬称略=