被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第2部「被爆者のカメラ」 4

端島の日給社宅(右)や地獄段と呼ばれた階段(中央)。島民でにぎわっている(吉川勝己さん撮影)

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被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第2部「被爆者のカメラ」 4 街の復興うれしかった 友人と活気ある端島へ

2013/08/01 掲載

被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第2部「被爆者のカメラ」 4

端島の日給社宅(右)や地獄段と呼ばれた階段(中央)。島民でにぎわっている(吉川勝己さん撮影)

街の復興うれしかった 友人と活気ある端島へ

写真のアルバムは50冊以上。「戦後、気軽に写真を撮りに何時間も歩き回った。カメラを手に、平和と自由を強く実感した」。吉川勝己(84)はそう語る。

路面電車の写真は1954年9月12日、現在の諏訪神社前電停付近を同神社の第1鳥居から撮影した。当時、バスや車はほとんど走っていなかったため、信号や横断歩道はない。

「原爆投下後はどこへ行っても焼け野原だったから、復興していく街を見るのがとにかくうれしかった」

終戦から9年。三菱重工長崎造船所で仕事が終わると、よく酒を飲みに行った。大波止付近に並ぶ屋台で同僚と朝まで飲み、片付けを手伝ってからそのまま出社したことも。楽しい時代だったが、同僚との会話に戦争の話が出てくることはなかった。「自分と同じように身内を失っているかもしれない」。そう思うと戦争の話題には常にためらいがあった。悲惨な過去を振り返るより、復興にまい進しようという雰囲気が街全体にあった。

休日は、長崎市内の鉄工所で働く写真仲間の一ノ瀬明彦とよく撮影に出掛けた。出会ったのは49年ごろ。仕事を通じて知り合い、年齢が近いこともあり気が合った。長崎市成人学校の写真科に一緒に通ったり、思い切って女性のモデルを雇って海岸での撮影も試みた。やはり戦時中や原爆の話をしたことはなかったが、とにかく一ノ瀬と語り合うのが楽しかった。

54年9月、一ノ瀬と、炭鉱で活況を呈していた端島(軍艦島)に向かった。着岸すると、新品のドルフィン桟橋を渡った。

旧高島町教育委員会の書籍「端島」(2004年刊)によると、同島は45年に石炭運搬船が米海軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没するなど戦火にも見舞われた。だが戦後の石炭不足の中、同島は増産運動で復興を支えた。また鉄筋コンクリートのアパートが立ち並び、最盛期に5300人近くが暮らす復興のシンボルでもあった。74年、閉山した。

=文中敬称略=