進駐軍の「使役」に従事 けがで入院 撮影始める
終戦直後、吉川勝己(84)=長崎市大浜町=は父庄八と長崎に残り、米兵が襲ってくることに備えて、母やきょうだいたちを父の実家の南高多比良町(現雲仙市)に疎開させた。
吉川は、新型爆弾のことは極力考えないようにした。死んだ弟のことを思い出して苦しくなるから。造船所の本格稼働まで検査工の仕事がなかったため、工場の片付け作業に没頭。気を紛らわす日々が続いた。
身内に犠牲者がいない人は会社が割り当てた地区で死体を集め、火葬作業をさせられていた。死体をつかんで動かそうとすればただれた皮膚がずるりとむけるため、棒で1カ所に押し集めて焼いていると聞いた。
ある日、会社から進駐軍の「使役」を言い渡され、米兵の寮から残飯を運び出す手伝いをさせられた。トラックに米兵と2人。怖かったが、実際は優しかった。片言の日本語で話し掛けてきて、パンをくれた。配給は制限があったが、米兵はおなかいっぱい食べさせてくれた。子どもたちにパンやあめを配っている姿は、鬼ではなかった。
1946年ごろ、造船所は稼働を再開。完成したボイラーが正常に作動するかを調べる検査工の仕事の一環で、不足していた鉄板や金属、部品などの管理も担った。48年、厚さ5センチの鉄板が右足に倒れ込み、大けがを負った。飽の浦町の三菱病院で約2年の入院生活を余儀なくされたが、人生の転機でもあった。
看護婦の松崎トク子に出会ったのはそんなころ。優しく人の悪口を言うことがない女性で、印象に残った。けがで造船所復帰が困難と考えた父は、「これで生計を立てろ」とカメラを買ってくれた。
看護婦や患者、家族らを撮り始め、すぐに熱中。けがが治ると、トク子とデートを重ね、青春時代を取り戻そうとするかのように写真をたくさん撮った。やがて復興が進む長崎の風景にもカメラを向けた。
54年9月、撮影のため夕方、大浦天主堂から浦上天主堂まで歩いた。車やバスはほとんど走っていなかったが、道路整備は順調に進んでいた。途中、何げなくレンズを向けたのが長崎市役所横の同年3月に完成したばかりの立体交差路。電車のライトの美しさに魅せられてシャッターを切った。=文中敬称略=