忘れられぬ地獄の光景 弟の遺影 画家が描く
生きているのに目玉がない。そこからうじ虫が出たり入ったりしている。死んだ母親と、へその緒でつながったまま息絶えた赤ちゃん。爆心地周辺の信じ難い情景。「忘れろと言われても絶対に忘れられない。この世の地獄だった」
吉川勝己(84)=長崎市大浜町=は、8人きょうだいの長男で、両親を含め10人暮らし。1943年4月に三菱長崎工業青年学校に入学、翌年から三菱重工長崎造船所で検査工として働いた。「ご飯は弟や妹に食べさせ、自分はほとんど食べずに過ごしていた」
爆心地から3・4キロの同造船所製缶工場で16歳の時被爆。夜になっても帰らない行方不明の3歳下の弟、敏美を捜すため8月10日、爆心地付近を歩き回った。敏美は、恥ずかしがり屋だが頭のいい弟だった。
下大橋付近。幾人もの人たちが折り重なって、川面に頭を突っ込んでいる。岸辺で、3歳くらいの女児が割れた茶わんに水をくみ、やけどを負った母親にあげようとしていた。それを消防団員のような男が制した。「水を飲ませたらいかん」。男が鬼に見えた。
11日、姉のカズエは、敏美を捜しに佐世保海軍病院諫早分院を訪ねた。そして、敏美の最期をみとったという看護婦に出会った。「きょう午前7時ごろ亡くなりました」
姉は、まだ13歳だった敏美の遺体と対面。火葬される前に、髪の毛と爪をもらって帰った。12日、父庄八が遺骨を引き取った。
8月15日、爆撃と原爆で被災した造船所の片付け作業に汗を流していた。敗戦をどのように知ったのか、覚えていない。肉体的にも精神的にも苦しめられた戦争。やっと終わったんだという思いだった。町中も安堵(あんど)の雰囲気がどことなく漂っていた。
敏美の遺影がなかったため、小学校の集合写真を借りてきて、画家に描いてもらって実家に飾った。その手描きの遺影は今、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(同市平野町)に収蔵してもらっている。=文中敬称略=