原爆から7年目の進水式 撮影 誇らしく
タンカーの進水式を撮影した1枚のモノクロ写真。長崎市大浜町の吉川勝己(84)は、いとおしそうに見つめ、こう言った。「私が撮ったんです」
進水式は1952年9月6日、同市立神町の三菱重工長崎造船所の船台であった。同造船所総務課によると、タンカーは「STANVAC JAPAN」(長さ約183メートル、幅約25メートル、1万7380トン)。吉川は当時、同市水の浦町の同造船所第2事務所で造機検査課の事務員として勤務していた。
何百人もの従業員らが見守った。海面に向かって船体が滑っていく。同時に皆で何度も万歳。こっそり持参したカメラ「ゼノビア」を構え、シャッターを切った。歓声がいつまでも響く中、誇らしさをかみしめた。
原爆投下で長崎が壊滅的被害を受けてから7年。戦災の傷痕が残る街で、ただ懸命に生きていた23歳のころだった。
三菱重工長崎造船所は原爆投下前、大規模な空襲に遭った。1945年8月1日、吉川勝己(84)は、長崎市飽の浦町の同造船所の製缶工場で働いていた。まだ16歳。
防空壕(ごう)は班ごとに指定されていた。空襲警報が発令され、一番近い壕へ。しかし満員で入ることを断られ、なんとか隣の班の壕に潜り込んだ。ほっとしたのもつかの間、激しい振動に襲われ、壕内は崩落。海水が流入してきたため脱出すると、目の前の光景にあぜんとした。最初に満員だった壕は跡形もなく、爆弾による大きな穴だけが残っていた。
爆撃は続いた。あちこちに転がる死体やちぎれた頭、手足-。それらにつまずきながら必死で逃げた。突然、地面の深い穴に誤って落ちた。泥水に漬かり、はい上がろうにも、あり地獄のように足が滑り、疲れ切った。「助けてくれ」。叫んだが誰も来ない。
どうやって助かったかは覚えていない。
長崎原爆戦災誌によると、この日の同造船所への爆撃は、同市への第5次空襲。造船所の死者は124人に上った。
8日後、同じ製缶工場内で同僚と空襲の後片付けをしていた。窓から強烈な閃光(せんこう)と爆風。とっさに伏せた。かぶっていた戦闘帽が吹き飛ばされた。爆心地から3・4キロ。
けがはなく、製缶工場もそれほど大きな被害はなかった。幸町工場(爆心地から1・7キロ)への救援を命じられ、浦上川沿いに進んだ。だが炎に道をふさがれ、山側に迂回(うかい)。ようやく到着し、負傷者の搬送作業などに追われた。
くたくたになって飽の浦町の実家に帰ったのは午後8時ごろ。家族10人のうち、油木町の市立商業学校(同1・1キロ)に通っていた3歳下の弟敏美だけが帰ってこなかった。
翌日、父の庄八、5歳下の美喜夫と浦上方面へ捜しに行った。男とも女とも分からない人々。髪の毛が燃え、着衣もぼろぼろ。焼け落ちた家屋に白骨化した死体、皮膚が垂れ下がったけが人もたくさんいた。
松山、大橋を通り、油木へ。負傷者や死体の顔をのぞいて回った。終日捜したが敏美の姿はない。日が暮れ、諦めて帰る途中、下大橋付近の浦上川に架かる橋の上で見た情景は、強烈に覚えている。欄干を背に、もたれ掛かったようにして立ち尽くした首のない胴体。見知らぬ人の頭部が転がっていた。ひどく穏やかな表情だった。
=文中敬称略=