被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第1部「父のアルバム」 3

就学前、陸軍兵に憧れていた島兵司さん。父が撮影した(島兵司さん提供)

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被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第1部「父のアルバム」 3 徹底した軍国主義教育 開戦、物資不足が深刻化

2013/07/19 掲載

被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第1部「父のアルバム」 3

就学前、陸軍兵に憧れていた島兵司さん。父が撮影した(島兵司さん提供)

徹底した軍国主義教育 開戦、物資不足が深刻化

1939(昭和14)年ごろ撮影された島兵司さん(79)=長崎市金屋町=の就学前の写真。後ろの大きな水がめは防火用水。焼夷(しょうい)弾による火災に備え、バケツリレーで消火するための水をためていた。当時は町内のあちこちに置いてあった。

祭日などは、在郷軍人が馬に乗って市内を闊歩(かっぽ)。子どもらは憧れ、陸軍兵をまねたりして遊んだ。家でも立派な軍人になるように、しつけられた。

子どもたちの間では、こんなふうな歌がはやっていた。「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったなら 勲章付けて剣下げて お馬に乗ってハイドウドウ」-。

一方、兵司さんは父哲夫さんや母ハルさん、弟らとよく矢上の「東望の浜」に遊びに行った。まだ、そんなゆとりがあった。県内有数の海水浴場。海岸に数え切れないほどの桟敷が並んだ。遠浅でハマグリがたくさん取れたという。長崎平和推進協会写真資料調査部会長の深堀好敏さん(84)は「東望の浜で遊べたのは65年ごろまで。その後、埋め立てられた。懐かしく思う県民は多いはず」と話す。

41年、兵司さんが新興善国民学校2年生時、太平洋戦争が勃発。「大東亜戦争」と呼んでいた。ラジオからひっきりなしに軍艦マーチが流れ、児童は学校の講堂に集められ校長が教育勅語を読み上げた。正面に天皇陛下の写真。手の中指をズボンの横の縫い目に沿わせ、直立不動で聞いた。「日本は神国。戦争に負けるはずがない」。そう信じて疑わなかった。徹底した軍国主義教育だった。

戦争の影響で、輸入品が徐々になくなっていった。「チョコレートはめったに食べられない特別なものだった」。チョコは一つ5銭。開戦前、小遣いをためて長崎駅近くの土産店で買うのが楽しみだったが、開戦間もないころ、店員に言われた。「戦争が始まったから、なかとよ」。キャラメルも消えた。

4年生のころ、物資不足は深刻化。学校では1年に1回程度、運動靴を買うための抽選があり「みんな当たりたかった」。抽選に外れた人は靴から指が出たまま履き続けるか、げた履きで登校。生活はさらに苦しくなっていった。