被爆68年 史料は語る 長崎原爆資料館収蔵展 3

家族が次々に亡くなっていった状況などが分かる松井さん一家の罹災証明書

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被爆68年 史料は語る 長崎原爆資料館収蔵展 3 罹災証明書と関連資料(上) 生き抜いた足跡刻む

2013/07/13 掲載

被爆68年 史料は語る 長崎原爆資料館収蔵展 3

家族が次々に亡くなっていった状況などが分かる松井さん一家の罹災証明書

罹災証明書と関連資料(上) 生き抜いた足跡刻む

1939(昭和14)年ごろ撮影された島兵司さん(79)=長崎市金屋町=の就学前の写真。後ろの大きな水がめは防火用水。焼夷(しょうい)弾による火災に備え、バケツリレーで消火するための水をためていた。当時は町内のあちこちに置いてあった。

祭日などは、在郷軍人が馬に乗って市内を闊歩(かっぽ)。子どもらは憧れ、陸軍兵をまねたりして遊んだ。家でも立派な軍人になるように、しつけられた。

子どもたちの間では、こんなふうな歌がはやっていた。「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったなら 勲章付けて剣下げて お馬に乗ってハイドウドウ」-。

一方、兵司さんは父哲夫さんや母ハルさん、弟らとよく矢上の「東望の浜」に遊びに行った。まだ、そんなゆとりがあった。県内有数の海水浴場。海岸に数え切れないほどの桟敷が並んだ。遠浅でハマグリがたくさん取れたという。長崎平和推進協会写真資料調査部会長の深堀好敏さん(84)は「東望の浜で遊べたのは65年ごろまで。その後、埋め立てられた。懐かしく思う県民は多いはず」と話す。

41年、兵司さんが新興善国民学校2年生時、太平洋戦争が勃発。「大東亜戦争」と呼んでいた。ラジオからひっきりなしに軍艦マーチが流れ、児童は学校の講堂に集められ校長が教育勅語を読み上げた。正面に天皇陛下の写真。手の中指をズボンの横の縫い目に沿わせ、直立不動で聞いた。「日本は神国。戦争に負けるはずがない」。そう信じて疑わなかった。徹底した軍国主義教育だった。

戦争の影響で、輸入品が徐々になくなっていった。「チョコレートはめったに食べられない特別なものだった」。チョコは一つ5銭。開戦前、小遣いをためて長崎駅近くの土産店で買うのが楽しみだったが、開戦間もないころ、店員に言われた。「戦争が始まったから、なかとよ」。キャラメルも消えた。

4年生のころ、物資不足は深刻化。学校では1年に1回程度、運動靴を買うための抽選があり「みんな当たりたかった」。抽選に外れた人は靴から指が出たまま履き続けるか、げた履きで登校。生活はさらに苦しくなっていった。