元米兵が撮影した写真 復興の街 勝者の記念
長崎原爆資料館の収蔵資料展では、原爆投下の翌月の1945年9月に長崎に来た元米兵、ジャック・クロウさん=米カンザス州在住=が撮影した写真22点が展示されている。
昨年8月に電子メールで連絡があり「原爆資料館が写真のあるべき場所だと思うので寄贈します」と伝えてきた。クロウさんは当時20歳で米軍伍長。技術者として道路整備などに従事したらしい。
八千代町の西部ガスの骨組みだけになったガスタンク付近の写真。同館学芸員の奥野正太郎さん(27)によると、宝町方面から長崎駅前方面に向かって撮影された。爆心地から約2キロ。長崎原爆戦災誌によると原爆投下時、2基のタンクは貯蔵量が少なく、二次災害は起きずに済んだ。
大量の資材を載せた大八車の上には子どもの姿も。男性が引き、女性らしき人が押して橋を渡っている。タンク横で遠くを見つめる人、道路脇に上半身裸の外国人とみられる男性らが集まっている。タンク後方に西坂町のNHK長崎放送局の鉄塔2本、右手前に路面電車の軌道。トラックや自転車も写っており、被爆翌月の状況や復旧の様子を知ることができる。
一方、爆心地から約800メートルの大橋町にあった西部ガスの大型ガスタンク前では、米兵が記念写真。同戦災誌によるとタンクは火柱を上げてちょうちんを押しつぶすように倒壊。周辺には身元不明の死体が散乱し、3カ月後の収集作業で、かますに詰めてトラックで運ばれたという。
奥野さんは「原爆の破壊の痕跡の前で勝者の米兵が記念撮影。ここで何人亡くなったとかそんな発想はない。当時の米側の心境を考える材料になる」と話す。
このほか、爆心地を含む地域の写真やむごい遺体の写真もある。遺体が撮影された場所は特定できないが、クロウさんはメールで「三菱の工場の近くで発見した。誰かが(遺体に)ござを掛けていた」と記している。