浦上天主堂旧鐘楼 平和求める信者の象徴
明治に入り、禁教令を解かれた浦上のカトリック信者。神への賛美を高らかに唱えることのできる大聖堂の建設は悲願だった。
浦上天主堂のすぐ裏手で生まれ育ち、今も暮らす信者の深堀繁美さん(82)は父の故・繁松さんから建設時の様子を聞いていた。野菜を売ったり食費を節約して捻出したお金を寄贈。建設作業は地区ごとに当番を決め、信者が担った。
1914年に完成を祝う献堂式が行われたが、ドーム形の鐘楼(直径5・5メートル、推計50トン)ができるまで、さらに11年を要した。コンクリートの材料やれんがを背負った信者らが足場を上り、全て手作業。鐘楼のある双塔の高さは26メートルで、教会堂としては当時、東洋一を誇った。
深堀さんにとり、天主堂は物心ついたころから庭のような存在だった。ミサには毎朝参列。鐘楼に掛かるアンジェラスの鐘が浦上に鳴り響いていた。いたずらで鐘を鳴らし、怒られたこともあった。
旧山里国民学校を卒業後、神父を志すため神学校で集団生活を送りながら、報国隊に駆り出された。あの日は飽の浦町の三菱重工長崎造船所で魚雷艇の部品を作っていた。突然の猛烈な光と音に、反射的に伏せた。爆心地から3・4キロ。防空壕(ごう)に逃げ、大浦の神学校に帰った。
自宅に向かったのは翌日。近づくにつれ、黒焦げの遺体が散乱するなど想像を絶する惨状。小高い丘の上には無残に崩れた天主堂の姿が見えた。爆心地から500メートル。愛着ある北側の鐘楼は吹き飛ばされ、30メートルほど下にある川に落ちていた。
その後、新天主堂を再建する際、この鐘楼を爆破し除去する案も出たが、最終的には川向こうの地権者に土地を寄贈してもらい川の流れをずらし、残した。
5年ほど前、教会施設の改修に合わせ、鐘楼を保存する整備案が浮上。しかし教会の財源では難しかった。深堀さんは「国の文化財登録で保存に向けた国や市の協力を得られるのは大きい。観光客はモラルを守りながら鐘楼が発する平和のメッセージに耳を傾けてほしい」と話す。