山王神社二の鳥居 1本柱で残虐さ告発
長崎市坂本2丁目の山王神社宮司、舩本勝之助さん(71)は3歳の時、神社近くの防空壕(ごう)で被爆した。爆心地から約700メートル。一緒にいた母は終生、被爆の惨状について「忘れた」としか言わなかった。「生涯語らなかったことが原爆被害のすさまじさを物語っているように思える」
戦争末期、同神社宮司だった父は千葉に出征中。舩本さんは身重の母、3人の姉と5人暮らし。8月9日午前は、防空壕に避難していた。「午前11時前に壕内で自分はおなかがすいたとぐずり、母はそれをなだめて昼ご飯を我慢させた。それで壕内にとどまり、生きることができたと聞いた」
直後、原爆は投下された。坂本町(当時)のほとんどの建物が倒壊、一帯は火災で焼失した。住民の半数以上が死亡。参道の二の鳥居(爆心地から800メートル、坂本1丁目)は片方の柱が爆風でもぎ取られた。残った柱は熱線で表面が溶解、はく離。鳥居は1本柱という痛々しい形状となりながら周囲の地獄のような情景の中で立ち続けた。社殿は破壊され、社務所も焼けた。
舩本さん家族は、一家全員が生き残った町内唯一の世帯という。小学生のころは、市内のABCC(米国の原爆傷害調査委員会)で検査をよく受けていた。お土産のようなものをもらえるのがうれしかった。原爆被害や鳥居を意識することはなかったが、家庭内には原爆の話題に触れてはいけない雰囲気もあった。
19歳で三重県の伊勢神宮内の神職養成所に入った際、全国から集まった神職希望者は皆、1本柱の鳥居を知っていて、その存在の大きさを再認識した。
2年後、養成所を出た。福岡市の筥崎宮に6年ほど務め、山王神社に戻った。原爆被害を象徴する1本柱の鳥居を残しておくことを疑問視する声や、倒壊を心配した住民が取り壊しを要望したこともあった。
父は二の鳥居を1本柱のまま残し続けた理由を語らず、亡くなった。なぜ残したのか。「費用のこともあったかもしれないが、被爆当時のままの姿で立っている意義を優先したのではないか」