旧城山国民学校校舎 解体免れ平和願う場に
爆心地から500メートル。68年前の惨禍の事実が刻まれた旧城山国民学校(現・長崎市立城山小)の3階建て校舎。内部の階段のコンクリート壁には、「木れんが」と呼ばれる焼け焦げた木板が埋め込まれている。
原爆投下当時の在校生で、同校舎のガイドを務める池田松義さん(75)が、修学旅行の中学生を前に語る。「この場所は4500度に達したとされます。木が焦げたのは炎が渦巻いた証しです」
原爆投下時、池田さんは同国民学校2年生。爆心地から700メートルの自宅そばで、いとこと防空壕(ごう)を掘っていた。入り口から3メートルほど奥で作業中、爆発音と熱風の塊が押し寄せた。家族は相次ぎ亡くなり、自らの手で火葬した。原爆投下前、推定約1500人いた同校児童のうち、約1400人が自宅などで死亡した。今も半数程度が名前さえ分からない。
2006年、城山小被爆校舎平和発信協議会の設立メンバーとなり、ガイドを始めた。校舎の壁には、額に納めた死亡児童の名前の一覧や、被爆直後に近くで撮影された白骨体の写真が並ぶ。「来館者に苦難の道や悲しみは想像できないかもしれない。それでも真の平和を願う一心で、この場所に立ち続けている」
年間3万人以上が見学に訪れる同校舎。だが30年前、建て替えに伴う解体話が持ち上がったことがあった。育友会などの運動で現存する棟の解体は免れたが、その後、フェンスに囲われ約15年間、放置された。
「何で中に入れないの」。1995年、被爆校舎の周りで草むしりをしていた3年生の女児が担任に問い掛けた。女児は窓から中をのぞいた。スコップや肥料が山積みだった。被爆した校舎なのに。4年生になり、平和学習の際、被爆校舎を開放して平和を願う場所にすることを提案。これを担任が受け止め、学校を通じ、市が構造診断を実施。99年、平和祈念館としての再スタートを切った。
この女児は成長し結婚、母となった。原山みづきさん(27)=同市愛宕3丁目=。20日、長女の楓音(かのん)ちゃん(2)を初めて平和祈念館に連れてきた。「この子がもう少し分かるようになったら、この校舎で起きたことをちゃんと伝えようと思います」。傍らでほほ笑む池田さんにそう誓った。
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長崎原爆の被爆遺構4件が、国登録記念物になる。近距離で原爆の爆発にさらされながら現存し続ける各遺構と、守り伝える人たちを見つめた。