宿命 かたくなに反核求め 実験に抗議の座り込み
17日、長崎市の平和公園。米国の核性能実験に対し市民ら約40人が抗議の座り込みを続けていた。谷口稜曄(すみてる)(84)が代表を務める「核実験に抗議する長崎市民の会」が呼び掛けた。
午前11時2分、黙とうをささげる。谷口の脳裏に原爆投下の光景と、犠牲となった郵便局の同僚たちの姿が浮かぶ。
あの日、本博多郵便局から配達や集金に出ていた局員は谷口を含め28人。生き残ったのは谷口だけ。15人は行方知れずのままだ。松山町方面に配達に出掛けたまま戻ってこなかった2歳年下の後輩もいた。
遺骨はどこにあるのか。谷口は1986年の退職後、局に残る当時の書類などを調べ、行方を捜した。
諫早の国民学校で救護活動をした女性から、虫の息で「郵便配達中に被爆した」と話す少年がいたとの情報が寄せられた。谷口はその少年が後輩と確信し、市役所や警察などを訪ねて回った。だが、埋葬場所や遺骨の所在を突き止めることはできなかった。
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核戦争の瀬戸際に陥った62年のキューバ危機などを背景に63年、大気圏内での核実験を禁じた部分的核実験禁止条約に米英ソが調印した。だがフランスと中国は応じず、米英ソも地下核実験を継続。そんな中、74年8月に長崎の被爆教師らが原爆落下中心地碑前で核実験中止を求める横断幕を掲げて座り込みを始めた。
80年7月の117回目の座り込みから谷口を代表に据え「市民の会」が発足した。会則はなく、座り込みに参加した個人が”会員”。核実験実施の報道があれば「直近の日曜日午前11時」に平和祈念像前に集う。
「組織の論理を持ち込むことはできん」。谷口は政治的動きを嫌う。米国のビキニ水爆実験(54年)による第五福竜丸事件をきっかけに保守、革新を超えた国民的運動に広がった原水爆禁止運動が、60年代に米ソの核実験をめぐるイデオロギーの違いなどから分裂。被爆者運動が停滞した苦い記憶があるからだ。
別の平和団体の毎月9日の座り込みでは、北朝鮮のミサイル開発なども取り上げる。だが「市民の会」は核実験抗議の一点。谷口の意向がにじむ。世話人の山川剛(76)は「強烈な反核意識の表れ。かたくなまでの強さがなければ、生きて来られなかったのだろう」と谷口をおもんぱかった。
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座り込みは通算396回を数えた。被爆地の訴えもむなしく世界では核実験が続く。それでも谷口は自らを奮い立たせる。「生き残った者の宿命」が突き動かしている。=文中敬称略=