家族 「生きてきたからこそ」 苦しみや不安を超えて
昨年10月、長崎港を見下ろす神社の境内。谷口稜曄(すみてる)(84)は祭りの準備に追われていた。自宅近くにある烏岩神社の秋の大祭「平戸小屋くんち」。谷口は総代代表と地元の自治会長を長年務めている。傍らには妻栄子(82)の姿もあった。
2人が結婚したのは1956年3月。栄子は「無理やり見合い、強制結婚よ」と笑う。韓国で生まれた栄子は終戦後、父の出身地である時津で暮らしていた。栄子の母と谷口の伯母が付き合いがあり、縁談の話が持ち上がった。
式の翌日、2人は雲仙へ新婚旅行に出掛けた。谷口の親友がバス乗り場まで見送りにきて「頼むけんね」と栄子に声を掛けた。
その夜、栄子は初めて谷口の背中の傷を目にした。「うわっと思ったよ。原爆てこげんひどかとかな」。ショックだったが、谷口の年老いた祖母や親友らの顔が頭に浮かんだ。「優しそうな人だし。誰かが見てあげんばやろ」。妻として支えていくことを誓った。
谷口は被爆者であることを理由に数人から縁談を断られていた。2人が新婚旅行に出掛けた後、自宅では親族らが「あの傷見たら、一緒には帰って来ないだろう」と話していたという。
「障害のある子が生まれるんじゃないか」。57年に生まれた長女の澄江(55)を身ごもったとき、栄子は不安にかられた。「原爆病は遺伝する」とうわさが流れていた。夫に内緒でおろそうと何回か病院に行ったが思いとどまった。澄江の元気な泣き声を聞いたとき、栄子は心の底から喜んだ。59年には長男の英夫(53)が生まれ、家族は4人になった。
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澄江は父の背中の傷を「当たり前のように思っていた」し、特に被爆者だと意識することもなかったという。もの静かできちょうめんな父。家族でドライブ旅行に出掛けたり、親子で昆虫採集をしたり、ごく普通の家庭だった。父から被爆体験を聞いたことはない。だが本で読んだり、他の人に話しているのを聞いたりして「ずっと苦しかったろうな」と思う。
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谷口の2人の子はそれぞれ結婚。孫4人、ひ孫2人がいる。息子家族は県外に暮らす。8月と12月生まれの孫のため、盆と正月に家族全員が谷口家に顔をそろえたときに誕生会を開くのが恒例だ。
「生きてきたからこそ、今の幸せがある」。谷口は子や孫らの存在を「生きてきた証し」と言う。今年の正月も谷口家のテーブルにはケーキが並んだ。
=文中敬称略=