訴え 「核なき世界」実現へ 目そらさず見てほしい
谷口稜曄(すみてる)(84)は1枚の小さなメモ紙を取り出した。そこには海外への渡航歴がびっしりと記されていた。その数23回。1961年に治療目的で旧東ドイツを訪れて以降、半世紀にわたり、世界で核兵器廃絶を訴え続けてきた。
「人間が人間として生きていくためには、地球上に1発たりとも核兵器を残してはなりません」
2010年5月、米ニューヨークの国連本部。5年に1度の核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれていた。非政府組織(NGO)セッションで、少年時代の「焼けた背中」の写真を手に各国代表らに訴える谷口。「私はモルモットではない。でも、私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで見てほしい」。81歳の谷口が声を振り絞った。
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訪れた国で最も多いのが米国の通算9回。原爆を投下した当事国の中で、その正当性を主張する声がある一方、「核なき世界」を求めて活動する多くの市民もいることを知った。
「米国が憎いのではない。戦争を起こした政府、核兵器は必要だと考える人たちが許せない」
93年7月、谷口は米ユタ州セントジョージを訪れた。西部開拓時代の名残をとどめる街並みに、不釣り合いな放射線監視装置(モニタリングポスト)。その街は51年から大気圏内核実験や地下核実験が繰り返されたネバダ核実験場の北東約200キロにあった。
核実験は大都市に影響がないよう風向きが北か北東方向の時に実施されたという。風下の街に放射性降下物が降り注ぎ、「死の灰」を浴びた住民には被ばくの影響とみられるがんや白血病などが多発していた。
谷口の目的は「風下住民」との交流と被害状況の調査。被団協が世界の「ヒバクシャ」と連携し、核兵器廃絶を訴えようと派遣したものだった。「米国にも核兵器の被害者がたくさんいる」。小頭症の子を持つ母親、高額な治療費を支払うために自宅を売った男性らの話に谷口は心が痛んだ。
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09年に「核なき世界」の追求を宣言した後も核実験を続ける米オバマ政権。谷口はいら立ちを見せるが、ある男性の言葉に勇気づけられる。核兵器禁止条約の締結を呼び掛ける国連事務総長の潘基文(バンキムン)。10年8月に初めて訪れた被爆地長崎で谷口ら被爆者と面談し、スピーチではこう訴えた。「強い決意と確信で立ち向かっていけば、核兵器のない世界は実現できる」。谷口が会長を務める長崎被災協の応接室には握手を交わす2人の写真が飾られている。=文中敬称略=