ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 3

長崎被災協の一室でたばこを吸う谷口さん。生死の境をさまよっていたころの記憶がよみがえる

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ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 3 生還 「きょうも生きてる」 海軍病院に3年4カ月入院

2013/03/19 掲載

ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 3

長崎被災協の一室でたばこを吸う谷口さん。生死の境をさまよっていたころの記憶がよみがえる

生還 「きょうも生きてる」 海軍病院に3年4カ月入院

長崎被災協にある3畳ほどの小部屋。会長の谷口稜曄(すみてる)(84)は帳簿を付けていた手を休め、たばこに火を付けた。

「初めてたばこを吸ったのは19歳のとき。病室の男性にねだって。ふかすだけ。高熱が続いていたが不思議なことに数日後、熱がひいた」

まじめな顔つきで話す谷口。大村の病院にいたころの記憶をたどった。

原爆で瀕死(ひんし)の重傷を負った16歳の谷口は1945年11月、長崎の救護病院から大村海軍病院に転院する。背中に熱傷を負ったため、うつぶせのままの状態。うんだ傷口にかぶせられたガーゼは高熱で乾いて肉にこびり付き、剥がす瞬間、あまりの痛さに「殺してくれ」と叫んだ。死を待つばかりの少年。「きょうも生きてる」。遠くで看護師らのささやく声が聞こえた。

「40度以上発熱」「呼吸浅イ」「風呂ニ三年ブリニ入ル」…。長崎原爆資料館には、同病院での谷口の治療カルテが収蔵されている。「原子爆弾結了日誌 谷口稜曄氏 初期から退院まで」。入院直後の45年11月26日から退院までの約3年4カ月の記録だ。46年1月末に米国の調査団が「焼けた背中」のカラー写真を撮影した際も重篤だったことが記されている。

原爆投下から1年9カ月がたった47年5月。18歳の谷口はようやく自分の力で起き上がることができ「生き返った」と実感した。それでも背中や左腕などの傷が治ったわけでなく、風呂に入ることができたのは48年末のことだった。

大村海軍病院には多くの被爆者が収容されていた。病室で伏せっていたある日のこと。松葉づえをかたかた鳴らし、にぎやかに談笑する若者たちの声が廊下から聞こえた。谷口は、その一人が山口仙二という名であることを後から知った。

谷口は49年3月20日に退院。約10日後には長崎の電報局に復職した。「早く戻らなければ、職を失ってしまう」との不安があった。

被爆者は当時、国からの援護もなく、原爆で負った体と心の傷、社会からの偏見に苦しんでいた。51年に長崎大学病院で手術を受けた谷口は山口と知り合う。山口も原爆の後遺症に悩まされていた。「分かり合える仲間」。山口の誘いで谷口は、56年5月に発足した長崎原爆青年乙女の会に参加。6月の長崎被災協結成に続き、8月には長崎で被団協が産声を上げた。谷口は被爆者運動に傾注していく。=文中敬称略=