少年 1発の爆弾 人生狂わす 郵便配達中、強烈な熱線
後ろから2匹の黒いシェパードが追い掛けてくる。大橋近くの鍛冶屋が夜間、放し飼いにしている犬だ。ペダルをこぐスピードを上げる。兵器工場の正門が見えてきた。右脇の小さな門に自転車を滑り込ませた。
谷口稜曄(すみてる)(84)は、10代半ばのころの思い出を少し誇らしげに語る。当時、本博多郵便局(現在の長崎市万才町)で勤務。受け持ちには三菱長崎兵器製作所大橋工場(現在の長崎大文教キャンパス)があり、「特急電報」は着信から15分以内に届けないといけなかった。「背は低かったけど体力はあったから」
1歳半で母と死別。福岡で暮らしていたが、鉄道の運転士だった父が満州に行くことになり、姉、兄と長崎の母方の祖父母宅に預けられた。姉と兄が就職で長崎を出たため「祖父母の面倒を見ないといけなかった」。高等小学校を卒業した1943年春、郵便局で働き始めた。自分で稼いだ金を祖母に渡せることがうれしかった。
だが2年後、1発の原子爆弾によって16歳の少年の人生は狂わされる。
その日は午後から外勤予定だったが先輩に代わるよう頼まれ、朝の9時ごろ配達に出た。暑かったので上着を西浦上の郵便局に預け、半袖シャツ1枚で赤い自転車に飛び乗った。
住吉神社に向かう路地へ曲がろうとしたとき、飛行機の爆音が響いた。その瞬間、強烈な爆風と熱線に襲われた。自転車もろとも吹き飛ばされ、地面にたたきつけられた。必死に起き上がると、左腕の皮膚がぼろ切れのように垂れ下がり、背中に手を当てると焼けただれた皮膚がべっとりと付いてきた。乗っていた自転車の車体はあめのようにぐにゃりと曲がっていた。
不思議と痛みはなかった。ぼうぜんと300メートルほど先にあった三菱のトンネル工場まで歩いた。そこで女性の工員に垂れ下がった皮膚をはさみで切って機械油を塗ってもらった。工場から避難することになり、工員に背負われて近くの丘の上へ運ばれた。「水を、水を」。周りはけが人であふれ、次々と息絶えていった。
ようやく警防団に救助されたのは11日朝。道ノ尾駅から諫早の救護所に送られた。数日後には長与に移ったが、薬がないので新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけ。9月半ば、救護病院が設けられた長崎の新興善国民学校まで祖父がリヤカーで運んでくれて、初めて治療らしい治療を受けた。だが体は輸血を受け付けないほど衰弱していた。
「傷口の肉が腐って膿(うみ)のようなものがどぶどぶと流れ出した」
=文中敬称略=