ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 1

深くえぐれた谷口さんの胸部。人生は原爆の後遺症との闘いだった=長崎市内の自宅

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ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 1 闘い 体に刻まれた爪痕 「語ることは生きること」

2013/03/17 掲載

ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 1

深くえぐれた谷口さんの胸部。人生は原爆の後遺症との闘いだった=長崎市内の自宅

闘い 体に刻まれた爪痕 「語ることは生きること」

床擦れでそげ落ちた胸部の筋肉。心臓が脈打つのが見て取れるほど深くえぐれている。熱傷を負った背中は皮膚組織の一部ががん化。石のような塊ができ、横になるだけで痛みが走る。汗や皮脂が出ず、皮膚が乾燥してひび割れるので保湿用の軟こうが欠かせない。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)会長の谷口稜曄(すみてる)(84)。その体に刻まれた原爆の爪痕が、闘いの歴史を物語っていた。

「遺言だと思ってほしい」。昨年5月、長崎市の平和公園に程近い長崎被災協の一室。谷口は修学旅行の中学生約70人と向き合っていた。同年1月に肺炎をこじらせ入院し、同3月に退院。約半年ぶりの被爆体験講話だった。

谷口が生徒たちに自分の半生を語り始めた。16歳の時、郵便配達中に爆心地から1・8キロの同市住吉町で被爆。熱線で全身を焼かれ、うつぶせのまま過ごした1年9カ月を含め入院生活は3年7カ月に及んだ。戦後は被爆者運動にその身を投じ、2006年から長崎被災協会長、10年から日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員も務める。

谷口が示した少年の「焼けた背中」のカラー写真を食い入るように見詰める生徒たち。赤くただれたその背中は、原爆投下から約5カ月後に米国戦略爆撃調査団によって撮影された谷口自身の姿だ。「14回入院し20カ所以上、手術した」

一昨年、昨年と肺炎をこじらせるなど近ごろは体調を崩すことも増えた。多いときは年間300回を数えた被爆体験講話だが、依頼の多くを断らざるを得なくなっている。

「久しぶりだったから。ちょっとね。疲れたね」

約半年ぶりの講話をこの日3回こなした谷口は、疲労感を漂わせながら、その表情は充実しているようにも見えた。だが20日後、背中に痛みを覚えた谷口は再び手術台に上った。

体調は万全ではなかったが昨年9月、語り部に復帰。今月初めに臨んだ本年最初の講話は、せき込みながら語り続けた。生き延びた者の「執念」が漂う。

「生きる力をくれるものはありますか」。講話を聞いた児童の1人が尋ねた。「原爆への憎しみ、結婚、家族」。谷口は答え、こう続けた。「語ることは生きること。いつ死ぬか分からないが、皆さんにこの事実を伝えていかないといけない」=文中敬称略= ◇

被爆70年に向け、長崎原爆の原点を見詰め、被爆者の生きざまを伝えるシリーズ「ナガサキの被爆者たち」の2回目。84歳になった今も、原爆の後遺症と闘いながら声を上げ続ける谷口稜曄さんを見詰めた。