元参院議員の篠崎年子さん 佐世保でただただ泣いた
1945年6月の佐世保大空襲の後、勤務先の保立国民学校(佐世保市)の焼けた校舎で片付けなどを続けていた。27歳だった。心のどこかで、最後は神風が吹いて守ってくれると信じていた。いい年の大人が、本気で。
あの日もたぶん、朝から学校にいた。日本の降伏を告げる玉音放送は聞いていない。午後帰宅し、隣人から敗戦を知らされた。悔しくて、ただただ泣いた。
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35年に県立佐世保高等女学校を卒業後、県女子師範学校に通い、18歳で教師になった。戦地に向かう教え子の父親を、駅で「万歳、万歳」と見送ったこともあった。しかし兵隊が白い布を首から掛けて遺骨箱を運ぶ様子を見るうちに、戦争への恐怖が年々、募っていった。
45年になると空襲警報は頻繁に鳴った。教え子たちは自宅と学校、防空壕(ごう)の行き来で授業なんて落ち着いてできなかった。そして8月9日、長崎に原爆が落とされた。
小さいころから「日本は神国だから戦争には負けない。世界で最も強く、偉い」と頭にたたき込まれてきた。そして自分も教師になって同じことをしてしまった。小さな日の丸を付けたつまようじを世界地図に当てて「きょうは日本軍はここまで攻めた」と、子どもたちに教えた。
軍や上層部が都合の悪い情報を隠し、虚飾のある発表をしていたなんて、全然知らなかった。真実が伝わらないことがどれだけ恐ろしいか、後で痛感した。
戦後は日教組で「二度と教え子を戦場に送らない」と反戦運動をした。退職後の71年には教育環境の改善などを目指し、市議に初当選。その後の県議、参院議員時代も「戦力や基地に頼る平和はおかしい」と訴え続けた。
それでも「戦時中になぜ戦争反対の声を上げなかったのか」と聞かれると胸が締めつけられた。戦中の教え子には申し訳ない思いがある。大人になった教え子たちに「先生はあなたたちに引け目を感じているの」と話したこともある。
腰を痛め、2年ほど前から反戦の集会や座り込みに参加できなくなった。悔しい。でも戦争を肯定する世の中にならないよう、残りの人生も願い続ける。多くの国民、若者に「日本に生まれて良かった」と思ってほしいから。それが、誤った教育をしたおわび。
【略歴】 しのざき・としこ 1918年佐世保市生まれ。37年県女子師範学校を卒業後、71年まで主に同市内の小学校に勤務。同年から3期連続で市議会議員に当選。83年から県議、89年から参院議員を1期ずつ務めた。県憲法を守る会の前会長で平和運動に従事。