ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方
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被爆者の代表としてニューヨークの国連本部で核兵器廃絶を訴える山口仙二さん=1982年6月

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ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方 4 叫び ノーモア ヒバクシャ 国連で核廃絶の決意示す

2012/08/07 掲載

ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方
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被爆者の代表としてニューヨークの国連本部で核兵器廃絶を訴える山口仙二さん=1982年6月

叫び ノーモア ヒバクシャ 国連で核廃絶の決意示す

1982年6月24日、米ニューヨークの国連本部で開かれた第2回国連軍縮特別総会の本会議場。「私の顔や手をよく見てください。これから生まれてくる世代の子どもたちに私たち被爆者のような核戦争による死と苦しみをたとえ一人たりとも許してはなりません」

演台の山口仙二(81)は原爆の熱線で肉をえぐられた自分の写真を掲げ、声を振り絞り、叫んだ。

「ノーモアヒロシマ、ナガサキ、ノーモア・ウオー、ノーモアヒバクシャ」

仙二が米国滞在中、ホテルで同室だった長崎大客員教授(哲学・平和学)の高橋眞司(70)は「世界史的な出来事だった」と顧みる。

東西冷戦下の70年代末、米ソによる核戦争の懸念が高まった。81年に西ドイツで30万人規模の集会が開かれ、反核運動は世界的に盛り上がる。総会期間中は史上最大のデモとなる約100万人がニューヨークの街を埋め尽くした。そうした時代に登場したのが、81年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員に就いた仙二だった。

高橋は「重圧は相当なもの。体調がすぐれず点滴を打ちながらスピーチの練習をしていた」と当時を語る。初めて立つ総会の場。仙二は体に刻まれた原爆の非人間性を全力で訴え、核兵器廃絶を成し遂げる決意を国際社会に示した。「彼は被爆者を代表する強い意志と情熱を兼ね備えていた」

仙二は84年から長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)会長も務め、被爆者援護法の実現を目指し、全国を駆け回った。「駆け引きなしに突き進む。優しい人で、無理強いするのは周りにではなく、自分自身に対してだった」と語るのは長崎被災協の相談員として、仙二の傍らで運動に取り組んできた横山照子(71)。

89年9月。核搭載疑惑が持たれた米艦船が被爆者らの反対を押し切って長崎に入港。その艦長が平和公園に献花した花輪を、仙二らが踏み付ける事件が起きる。そばにいた横山は「彼の手はブルブル震えていた。原爆投下国が被爆地に『核慣らし』の入港をした。彼の行動は突拍子もなかったかもしれないが、責任感が強い人だから…」。

非核三原則を国是としながら、核疑惑艦の被爆地寄港を同盟国として許した政府や県。原子雲の下で生き残り、惨状を目撃した者としての使命感と憤怒が、仙二を突き動かしたのかもしれなかった。

花輪の踏み付けは、被爆者の中からも批判の声が上がり、刑事告発される事態となった。仙二は振り返る。「非礼という批判。いろいろあるでしょう。だが多くの人が熱線で焼き殺された場所に核疑惑艦の艦長が軍服姿で献花に来るとは。怒りが収まらなかった」

=文中敬称略=