仲間 苦しみ分かち声上げる 「なぜ国は治療費出さない」
「国が起こした戦争で原爆に遭い、被爆者は苦しみ続けている。なぜ国は治療費を出さないのか。そういう思いからでした」
雲仙市のケアハウスで、山口仙二(81)は58年前の夏を思い返した。
1954年夏、23歳の仙二は国会議事堂前に立っていた。無賃乗車で単身上京。国会議員に直訴しようと考えたのだ。当時、被爆者の医療費は自己負担。いちずなまでの思いが仙二を突き動かした。
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原爆で大やけどを負った仙二は、46年6月に旧県立長崎工業学校(現県立長崎工高)に復学するが、後遺症に苦しんだ。入院や自宅療養を繰り返し、6年がかりで卒業。仕事は見つからず、郷里の五島へ。家業の菓子店を手伝いながら体調不良と無気力に悩んだ。いわゆる「ぶらぶら病」。闇の中を歩くような生活に、自殺未遂も起こした。
仙二が熱傷治療を長崎大学病院で受け、退院した54年3月、米国のビキニ水爆実験による第五福竜丸事件が発生する。死の灰の恐怖に原水爆禁止運動が巻き起こり、口を閉ざしていた被爆者が体験を語り始めた。「被爆者が力を合わせ、声を上げていかないといけない」。仙二は時代のうねりに身を投じることになる。
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「山口さんと初めて会ったのは大学病院。51年ごろかな。開けっぴろげな性格で誰とでも活発に話し、行動する人」。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)会長の谷口稜曄(すみてる)(83)。仙二とは古い付き合いだ。
国から見放され、人には言えない苦しみを背負い続ける被爆者。互いの悩みを語り合おうと仙二は仲間に呼び掛けて55年10月、長崎原爆青年の会を発足。既に活動を始めていた長崎原爆乙女の会と翌年5月に”結婚”し、長崎原爆青年乙女の会が誕生する。
「シャツを脱いで人前で泳ぐことは勇気がいることでした。でも、みんな被爆者だと他人の目を気にしないでいい。楽しい思い出」
谷口が懐かしそうにアルバムから写真を取り出した。56年夏に青年乙女の会で海水浴に出掛けた際の1枚。若い仙二も笑顔で写っている。谷口はこう語る。「同じ被爆者だから分かり合える。仲間意識は強かった」
56年の夏、長崎の被爆者運動は熱を放ち始めた。6月、仙二らが呼び掛け人に名を連ねた長崎被災協が発足。8月には長崎の地で初めて原水禁世界大会が開かれ、期間中に全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が長崎で産声を上げた。仙二の活動も目まぐるしさを増す。そうした中、私生活でも新たな出会いが待っていた。
=文中敬称略=