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流転 外国人被爆者手帳「1号」 1 あの日 ドアの下敷きから脱出

2012/07/31 掲載

あの日 ドアの下敷きから脱出

7月15日夕、「在台湾被爆者国賠訴訟弁護団」主任弁護士の向山知(33)は、米北東部のオハイオ州コロンバスの空港に降り立った。広大なトウモロコシ畑を抜け、向かった先は閑静な住宅街。1963年10月に被爆者健康手帳を取得したという台湾出身の女性が待っていた。

「荘司富子です。遠いところ来ていただいて、ありがとうございます」

向山を自宅に招き入れた86歳の富子は、ピンクの手帳を開き、被爆後に歩んだ流転の人生を語り始めた。

日本が台湾を統治していた26年1月、台湾南部の港町朴子で生まれた。10人姉妹の末っ子。16歳の時、姉雅子が住む広島の女学校に入った。軍需工場だった広島地方専売局(皆実町)秘書課に挺身(ていしん)隊として勤務。「『台湾のお嬢さん』と、局長さんたちに呼ばれてね。忙しかったけれど、励まされながら働いた」

45年8月6日、暑い朝。自宅のあった富士見町から歩いて勤務先に向かった。3階の秘書課に入ろうとした瞬間、花火のような明るい光が窓から見えた。

ドドーンと不気味な音がしたかと思うと、大きなドアが背中に倒れ、下敷きになった。気が付くと、右腕にガラスの破片が刺さり、血が流れていた。力を振り絞り、ドアの下から抜け出し、建物の外に出た。

専売局は爆心地から南東に2キロ。「あちらこちらから火の手が上がり、男女の区別が分からない人が(局近くの)御幸橋を渡っていた。満潮になった川に死体が浮かんでいた」。その夜は同僚宅に身を寄せた。

7日は姉を捜し歩いた。8日、自宅にたどり着くと焼け落ちていた。爆心地から東に1キロ。同居のいとこは死んでいた。「(市東部の)東雲に行きます」。門柱に姉の書き置きが張られていた。東雲は姉の勤務する学校の施設があった。姉と再会できたのは9日。

終戦で台湾の日本統治は終わった。姉と二人で一間を借り、広島で働き続けた。台湾に戻ったのは47年2月。佐世保から船に乗った。台湾で両親に再会。名前も「荘來富(そうらいふ)」になった。

(文中敬称略)

外国人被爆者として、確認できる中で最も早く被爆者健康手帳の交付を受けた台湾出身の荘司富子さん(86)が米国で健在であることが分かった。荘司さんの生きた軌跡を追い、外国人被爆者の援護が置き去りにされた歴史について考える。