救護活動に当たった早岐駅 口石信さん(84)=佐世保市崎岡町= 手を引くとはがれた皮膚 列車から重傷者運び出す
「建物も石段も、全然変わらない」
佐世保市のJR早岐駅。構内ではJR長崎駅(長崎市)の車両基地移転に伴う工事が始まり、建設中の新しい陸橋がホーム上に姿を現しつつある。しかし、木造の駅舎や正面入り口の階段、待合室などは、重傷の被爆者を救援列車から運び出した1945年8月当時のままだという。
当時から佐世保市崎岡町に住み、17歳で家業の農業を手伝っていた。被爆者を乗せた列車は、長崎原爆投下翌日の同月10日朝以降、早岐駅に到着。地元警防団の一員として、救護・運搬活動に携わった。
駅舎の北に隣接し、今は駐車場となっている場所にあったホームに、客車が3両止まっていた。車内には、重傷で動けない被爆者が残されていた。片半身を熱線で焼かれ、片側にしか髪の毛がない男性がいた。「はよこんね」と呼び掛けて手を引くと、自身の手のひらに、はがれた皮膚がべっとりと付いた。
車外に出した被爆者を炭俵で急造したたんかに載せ、救護所になっていた早岐国民学校(現在の市立早岐小=同市早岐2丁目=)まで何度か運んだ。
その約1カ月前には、同年6月28日深夜から29日未明にかけての佐世保大空襲後の市街地にも出動した。黒焦げになった遺体を、まとめて荼毘(だび)に付す作業に従事した。
二つの記憶を思い起こし、戦争をどう思うか-と尋ねた。「情けない。…言葉が出ない」。そう言って黙り込んだまま、目ににじませた涙を手でぬぐった。