1000人超を救護した大村海軍病院 奥村虎治さん(78)=諫早市飯盛町後田= 無数の死体 直視できず 敷地内の雑木林に無縁塚
大村の小高い丘に立つ国立病院機構長崎医療センター。前身は大村海軍病院で、敷地の片隅の雑木林には67年前に千人規模の被爆者を救護したことを伝える顕彰碑と、当時の門柱がひっそりと据えられている。「木々の様子には、あのころの面影が残っている」
当時11歳で、海軍病院から歩いてすぐの木場1丁目に住んでいた。自宅隣の野田神社で遊んでいると、大村湾を隔てた浦上方向の空がピカッと光った。ドーンと響き、揺れを感じた。やがて入道雲のような煙が立ち上がった。
その日の夕方、「長崎が『ピカドン』で大変だ。けが人が大村駅に運ばれている」と聞き、駅へ走った。駅前広場には、服はぼろぼろで血まみれの無数の死体が折り重なるように横たわっていた。足が震えて直視できなかった。負傷者はトラックや消防車でピストン輸送されていた。
搬送先の海軍病院は多くの守衛がおり、柵で囲まれていて普段は入れない。その後、敷地内の雑木林に、土を幅5メートル、高さ50センチほど盛った無縁塚があるのに気付いた。「幽霊や火の玉が出るから行くなよ」と周囲から言われて怖くなった。
終戦後、しばらくして無縁塚はなくなった。一方で海軍病院近くの千平方メートルほどのイモ畑が仮墓地となり、卒塔婆がいくつも立った。ひつぎを埋めるため地面に穴を掘る人も見掛けた。
後に遺骨は長崎市へ集約されたと聞いた。仮墓地は住宅地となり、風景はすっかり変わった。