妹と一緒に泣いた簗橋 下平作江さん(77)=長崎市油木町= 水求め はいずる人々 ただ見つめ 母を呼んだ
10歳の時、友達と油木町の防空壕(ごう)の中で被爆した。何かが光り、吹き飛ばされて記憶が途絶えた。爆心地から約800メートル。気が付くと、壕内に焼けただれた人がたくさんいた。義父が無事を確認しに来てくれたが、再び出て行った。「家に帰ろう」。翌日、8歳の妹の手をひき、1歳のおいをおんぶして、義母を捜しに駒場町(現松山町)の自宅に向かった。神社の前を通り、浦上川を挟んで城山国民学校付近と松山電停付近を結ぶ簗橋(やなばし)を渡った。
簗橋は、コンクリート製の手すりの片方が全て川に崩れ落ちており、もう片方は半分が壊れて橋の上に散乱していた。一方向から大きな力が加わったことが分かった。橋には複数の黒焦げの死体が転がっており、少しでも動ける人は、はいずりながら川へ下る石段に向かっている。「水、水」とうめきながら。「水を飲むな。飲んだら死ぬぞ」。救援隊の人だろうか。あちこちから声が聞こえた。
腹ばいのまま石段を下りようとする人。途中で息絶えた人。それを乗り越える人もいた。ただ見つめていた。
「かあちゃんも、この中におるかもしれん」。妹が泣きだした。橋が熱を帯びていて、はだしの足の裏が熱い。「泣きなさんな」と言いながら「かあちゃん、かあちゃん」と2人で大泣きした。
「今はこの橋をみんな楽しそうに渡ります。あの時の光景は、幻のようにも思えます」